ライオン・キング
いよいよラストステージです。
12月8日、9日もう明日あさってだけですが、時間がある方ぜひ来てください。
語りたいことも想い出もありますが、まずはいつも通り精一杯演奏するのみ。
「初演のような緊張感と千秋楽のようなクオリティを」いつも忘れないようにやってきたつもりです。
初めて観るお客さんも100回観たお客さんも、納得してもらえるパフォーマンスを目指します。
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いよいよラストステージです。
12月8日、9日もう明日あさってだけですが、時間がある方ぜひ来てください。
語りたいことも想い出もありますが、まずはいつも通り精一杯演奏するのみ。
「初演のような緊張感と千秋楽のようなクオリティを」いつも忘れないようにやってきたつもりです。
初めて観るお客さんも100回観たお客さんも、納得してもらえるパフォーマンスを目指します。
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木場の東京都現代美術館を訪れた。
2週間ほど前にも一度来ていて、その時消化不良だったので記憶が薄れないうちにもう一度。
常設展のほか「建設展」と「ゼロ年代のベルリン展」
建築はものすごく好きで興味あり。
今からでも勉強してデザインしたいくらい。
ベルリン展は強烈な作品の数々。
映像作品も多く、前回はゆっくり見られなかったので今回は全てをじっくり。
そして常設展。
目当ての作品の一つは見られなかったものの、「樹」をテーマにした作品群、またその他の現代作品群も素晴らしかった!
僕は現代絵画が好きだ。
技術や時代などそれほど興味があるわけではないが、作品を「知る」上では助けになる。
どんな時代が作家にその作品を描かせ、作家のどんな歴史がその技術を選ばせたのか。
だが、絵を「観る」上ではそれらは必ずしも助けになりはしない。
「偶然性」を基軸に持つ作品にはあまり興味も惹かれないし感動にも到達しない。
一見でたらめな羅列に見えても、そこに人の意志と想いが見えると、平面から風と音楽が聴こえてくる。
現代音楽の楽譜を、読み込んで解読して、そして再構築して自分の音楽にしていく、そんな作業にとても似ている。
いや、古典の音楽でも同じかもしれない。
どんな音楽も常に「その時代の現代音楽」であるのだから。
そもそも絵や音楽、風景の「喜び」「楽しみ」「感動」「快感」とはなんだろう。
「好きな匂い」「美味しい味」「気持ちいい手触り」「心地よいマッサージ」等々、具体的な刺激は理解しやすい。
文字や絵画のような「視覚、映像情報」、音楽や会話のような「聴覚情報」だって五感に基づく刺激の一種と言う意味では味覚や嗅覚、触覚と同じこと。
それぞれが脳の中で互いに影響・反応し合っているのは言うまでもない。
記憶や経験の中の知識、その他様々な影響によって感じ方は千差万別。
思い込みや先入観もその一つ。
納豆が好きな人もいれば、夕陽が大嫌いな人もいる。
ジョン・ケージに感動の涙が出る人もいれば、モーツァルトに退屈する人もいる。
音楽に絞って考える。
生まれてから出会ってきた音楽、接してきた音楽。
親が歌ってくれた子守唄。
テレビから流れる音楽。
やがて、社会が広がっていき、他人からの情報も増えていく。
ここで思うのは、もし他からの情報がなにもなく20年過ごして、突然「音楽」を耳にしたらどうなるのだろうか?ということ。
つまり、音楽に対する「喜び・楽しみ・感動・興奮・哀しみ」等々の感性は経験のみから来るのだろうか?ということ。
僕の中の感性は人から与えられたモノだけでできているのだろうか?
夕陽を見てなぜか感動してしまうとき、そこには太古の記憶がDNAに宿っているからだ、と言う人がいる。
まあ、根拠のない話だが夢はある。
どんな感動も感性も、どのような経験の影響を受けていようとも、その感覚自体は否定するものではない。
また、純粋に自分の中から生まれ出る感覚もあるに違いない。
20歳で初めて「音楽」に触れた少女にも、何かの感動は生まれるだろうし、その多くは純粋な感覚に違いない。
現代的手法の絵画や音楽作品に触れるとき、今までの経験や知識・常識があまり通用しない時がある。
その時こそ自分の中の独自の感性の部分が多く感応するのを感じる。
創った人間の、その作品を産み出すに至った経緯にその起源の答えを求めすぎずにその作品にまっすぐに対した時、また一つ自分の中に新しい感性が生まれる。
そしてあっという間に経験と言う過去に飲み込まれていくのだ。
まあ、そんなことをいろいろ考えつつ、本題の「音楽や絵画の感動とはなんだろう?」について考える。
・・・のは、また今度にしよう。
兎に角、東京都現代美術館で出会った作品に、たくさんの感動をもらって、束の間幸せだったよ。
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過去を語るほど老いぼれてはいない
未来を語るほど自我が整ってもいない。
不安はあるが実感はない。
夢は山ほどあり、未だ増殖を続けている。
だから…?
でも…?
逃げ出したいと思っても、死ぬその日まで苦しんでみようとも思う。
今年は本当にいろんなことがあった。
自分の人生を左右するような大事件が幾つも。
死も、病も、事故も。
自分に起こった様々な事象と、大切な人たちの死はどこかで全て繋がっている。
「今年は…」と書いたが、その大事件の数々を「2011年の出来事」として年表に押し込むことはできない。
嬉しいことや幸せなことももちろんあった。
嬉しいことがプラスで、悲しいことがマイナス、だとは僕は思っていない。
それぞれは別々に積み重なる。
相殺はない。
辛さと甘さが共存するように(?)
死を軽々しく口に出すことはできないが、考えずにはいられない。
本当に悔しく、残念に思う。
みんなきっと、そうだろう。
俺は「死ぬまで生きる」
あいつも「死ぬまで生き」たんだと思う。
楽になれたのならそれは救いだが、それでもいずれあちらで会ったら一発ぶん殴る。
俺はもう少し頑張ってみるよ。
「想い出」や「経験」という言葉に収めたりしない。
ただ、もう会えないのが寂しいんだ。
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PCでラテン語の調べ物しながらなんとなく「ながらテレビ」
数学のバラエティ番組の問題
①4人はお互いが見える状態で座る
②目隠しした4人の額に緑か赤のマークを描く
③目隠しを外し、他の人の額に2つ以上の緑が見えたら挙手
④自分の色がわかったら「わかった」と言って証明する目隠しを取ると全員すぐ挙手
「私」には3つの緑が見えた
誰もすぐには「わかった」とは言わなかった
私の色は?
すぐわかりました。
まだ答えは放送されてないけれど、多分。。。
《証明》
私を「D」、他の3人を「A,B,C」とする。
私が赤だと仮定した場合の、Aさんの思考は、
「BさんとCさんが緑なので手を挙げる。Dさんは赤なので、私(A)が赤だとしたらBさんもCさんも赤が二つ緑が一つ見えるので手を挙げないはず。だが手を挙げた。と言うことは私は緑である」
と言う結論に達するはずである。
BさんもCさんも同じ思考になるはずである。ところが誰もその結論に達しない。
それは私が「赤ではない(緑である)」からである。
でもなぁ。。。
自分はすぐに結論に達したけど?
他の3人もみんな同じぐらいの思考スピードだったら?
背理法での証明だと思うけれど、美しくないかも…
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最近凝ってる自転車で、楽譜を郵送するために郵便局へ。
ようやくヘッドフォンに対する恐怖感が減ってきた今日この頃。
新しく買ったインナーヘッドフォンはさすが、良い値段がするだけあってイイ音。
あれ?
と思ったら電池切れ。
繋がっていたコードを外すと、耳にはいろんな音が飛び込んでくる。
風の音、雑踏の音、音、音、音・・・
なんだか急に世界が色を増したような気がして、匂いまで感じてきた。
「ヘッドフォーンで、ふさぎ続けた耳には、風切る音さえ、美しい」
そんな歌の歌詞を想い出してちょっと涙が出そうになった。
自分でも驚くぐらい、音楽が湧いて出た。
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誤解のないように初めにことわっておきますが…
僕は相手がアマチュアであろうとプロであろうと、常に全力で音楽と人と向き合います。
仮に小学生のオーケストラであろうとも、です。
それが僕のスタイルであり、自分を支える柱でもあります。
僕の尊敬する音楽家も、大好きな音楽家も、優れた人はみんなそうです。
と言うか、「無心」で真摯に音楽に向き合っている、と思うのです。
僕も夢中になれば相手が誰であるかを忘れてしまいます。
出来るだけそうでありたい、と思っています。
理想ではそう言っても、練習量や様々な他の事情によって、絶対的な音楽の完成度には差ができます。
でも、音楽の満足度・達成感、を左右するのはやはり、どれだけ持てる力を発揮できたかによると思うのです。
きれい事でも慰めでもなく、どれだけ、精一杯力を絞りだすことができたか、だと思うのです。
そこに在る感動が真実だと思うのです。
少なくとも僕の中では。
指揮者は自分の求める音楽を、はっきりと自分の中に作り上げ、それを実際の演奏とすり合わせて音楽を創り上げていく。
指揮者の想像を越えるプレイヤーの音楽性やテクニックを聴いて、それを活かして変化もしていく。
それが一般的な音楽づくり。
しかし、あの日以来、僕の頭の中では「理想の音楽」が「理想の演奏」によって強く鳴り響いています。
音の消えた病室で、絶望しかけた僕を支えたのは友人の言葉と、「自分の中の音楽」でした。
自分の中で鳴り続けていたオーケストラは、自分の望む音そのままだったのです。
それを再確認して僕は指揮者に戻れたのです。
その音を、音楽を、実現したい。
もっと追究て奏でたい。
もっともっと音楽をしたい!!
その想いで心が張り裂けそうになります。
わざわざ「誤解のないように…」と書いたのは、「理想の演奏」は決して現実のオーケストラへの不満ではないから。
「理想の音楽」それは現実の音楽への失望でもないから。
いつか、自分の中の理想の演奏と、現実の演奏の感動とを融合させたい。
そのためには、もっともっともっと本気で暴れたい。
本気で求めたい。
弾けそうな心で、そう思うのです。
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ダム好きの聖地「黒部ダム」、通称「くろよんダム」
何度も来ていますが、3年ぶりの訪問。
仕事の合間に来たのでゆっくり、とはいけませんでしたが、それでもアルペンルートの「大観峰」までなんとか。
黒部の山々も水も木々も、「何年経っても変わらず」そこで待っていてくれました。
でもダム堤体や周辺を見てびっくり。
地震によるズレやヒビがあちこちに見られます。
なかなかリアルで恐ろしかったです。
山の上は標高2300メートル越え。
気温も6℃ほど。
室堂まで行ければそこは3000メートル級の山の嶺。
苦労なしにそこまで行けるのはすごいことです、が…
それにしてもタンボ平は見事な紅葉。
このタンボ平、絨毯のように草樹が敷き詰められて…と見えますが、3メートルほどの樹々の群生地。
本当は、「何年も経っても変わらずそこに在る」、のではなく、生まれて死んで、また強い生命力で次々に生まれいくことの繰り返しの中でできている風景なのですよね。
山も、空も、水も。
大観峰の澄んだ冷たい空気を吸い込みながら、「自分の足でここまでたどり着いたらどんな気持ちでこの空気を吸うのだろう?」と考えました。
山登りの経験などほとんどない僕ですが、いつか必ず挑戦したいと思います。
テンションの上がった僕は帰宅直後から、「黒部ダムと周辺」やNHK「プロジェクトX」のDVDを観てしまい、そのまま「黒部の太陽」前・後篇をすべて観てしまいました。
気が付くと朝6時…
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来日記念のイベント。
プレスへのサービスとソニーの販促(?)の一環。
音楽家は常に頭の中に理想の音楽を創らねばならない。
その音楽にはきちんと理由がなければならない。
その感性には裏付けのある熟成がなければならない。
でも、ついつい現実の壁に負けて理想を忘れがち。
たとえば、
楽器の特性に慣れてしまって悪い音程に違和感を感じなくなってしまった管楽器奏者。
たとえば、
技術の困難さから音楽とは関係のない「テンポの揺れ」を容認してしまう弦楽器奏者。
まあ、楽器独特の“味”と言える部分もあるのだけれど…
そして、自分のテクニックの未熟さから、自分の創りたい音楽から離れた演奏をしてしまう…
まあ、要するに自分のピアノ演奏についてとっても悔しく思っているワケで。
ランランの演奏を生で間近で聴いて、そのあたり如実に実感しました。
「自分のテクニック内で表現をする」のではなく「自分の表現したい音楽にテクニックを追いつかせる」ということ。
あくまで自分の理想の音楽を高い意識で追求し続けること。
まあ、一般的にはキビシイ自分への鍛錬があって行きつく世界であることに変わりはないのですが。
指揮者として、演奏者との間のセッションも含めて、そこは薄めたり緩めたりしてはツマラナイのですよね。
と言うわけで、演奏を聴いた後リストやらショパンやらペンデレツキやら、ピアノ譜を一杯買いこんでしまったのでした。
いつさらうねん?
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