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2008年4月 4日 (金)

絶対音楽と標題音楽

Mer2 ドビュッシーは交響詩「海」で印象主義の視点から海の表情を音楽にした。
ヴィヴァルディは四季折々の表情を音楽へ写しとる試みをした。
ベートヴェンは交響曲6番の中に“自然”を織り込んだ。
ピアソラは「アディオス・ノニーノ」で父への永訣と悲しみを歌った。

「標題音楽」とは、題名、表題、内容を案内するような文章を付して音楽でそれを表出しようとした音楽である。
が、近年では文ではなく画像や映像を添えたり、何もなくとも音楽から読み取れる劇的表現のみを用いて様々な場面や状況を映し出すものもある。
もちろん、それらには喜び・悲しみ・恐怖、といったような心情の表現も含まれる。

ただ、カッコウの音を模して笛で吹いたり、ロバの蹄の音をお椀で表したりしただけでは、それは音楽ではなく、音響効果に過ぎない。
偉大なる先人たちは、単に何かを音に写しとったのではなく、「それらを音楽に」した、或いは「音楽でそれらを表現」したのだ。

グロフェはグランド・キャニオンの中でココナッツのお椀でロバの蹄の音を出そうとしたし、レスピーギに至ってはローマの松の中でナイチンゲール(夜鳴き鶯)の声のレコードを使用するように指示している。
更に、現代ではわざとコンサートホールのドアを開け放ち、雑踏の音を表現の一部にしたり、雑踏の音を録音した素材を使用したりもする。
これらはあくまで、現象を音に写しとり、それを素材に音楽を作り上げたのである。
多分に直接的ではあるが・・・

すべての作家の作品を妄信的に受け入れるつもりはないが、そこに作家の強い表現へのモチベーションがある限りそれには意味がある、と思っている。

それに対して、音楽の機械的構築、対位的な美しさ、機能美の上に成り立つ和音、原理的な法則、等を用いて、音楽それ自体の持つ力、美しさ、楽しみ、を表現したのが絶対音楽、純粋音楽と言われるものである。
そして、この「絶対音楽こそが正しい音楽であり、他の情報で縁取られた音楽には、音楽そのものとしても価値は薄い」、とする考え方がある。
もちろんこの考え方に諸手を挙げて賛同はしないが。
僕は標題音楽であれ絶対音楽であれ、その価値に何の変りもない、と考えている。

だから、標題音楽も、音楽それ自体に独立して力がなければ到底存在はし得ない、と思うのだ。
つまり、素晴しい標題音楽はそれ自体が絶対音楽として十分成り立つ、のである。

絶対音楽だから素晴しいのではなく、まず素晴しい音楽があり、その音楽に「標題」があるかないかの違いだけではないか。(もちろん、曲が作られてから表題が作られた、と言っているのではない)
絶対音楽の中には、その作品の作られた衝動や原動が何かの心理的標題の上に生まれているものもあるかもしれない。
だから、そこからオーディエンス(或いは奏者)が標題的なものを読み取ったとして、何の間違いがあろうか。
標題音楽から、また作者の意図とは違うイメージを受け取ることもあるだろう。

しかし、標題音楽の「標題」部分に誤魔化されてしまって、本来のその作品の価値を見誤ってはいないか?という警鐘を内包したのが上記の「絶対音楽絶対主義」なのかもしれない。
もしそうなら警鐘の部分に共感する。
近年、その曲の音楽が標榜しているものが標題しているものとあまりにかけ離れている音楽が多くはないか?
奇をてらったり、大衆受けしたり、コマーシャリズムの上で作られた題名の曲が多くはないか?

僕は絶対音楽をリハーサルするときにも詩的な表現をしたり劇的な表現をすることがある。
しかし、それはイメージや表現を限定するものではないし、絶対音楽に標題的表現を加えるつもりも毛頭ない。
僕の持っている世界観や音楽観を伝える、僕の表現の仕方のひとつでしかない。

最近貪るようにいろんな音楽を聴いている。
けして有名な曲ではなくとも、素晴しいアイディアや美しい旋律に出会う。
単純な曲でも難解な曲でも、良いものは良い。
しかし、標題にその作品とは関係のない意図を感じる曲に出会うたびに残念に思う。
話題の曲にもそんな曲が時々ある。
目新しい、とっつきやすい標題に惑わされてはいけない。
本当に良い曲は、確固たる自分の審美眼を鍛えながらに、自分自身で見つけなければならない。
絶対音楽としての価値を備えたものを。

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