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2008年10月23日 (木)

マチエールとテクスチュア

僕は楽曲をアナリーゼ(分析)するとき、和声、作曲家・作曲の背景、構成、などなど、様々な角度から一度分解する。

細かいパーツを眺め理解し検証し、再び構築する。
その流れの中で、作曲者がどのような意図を持ち、どのような苦しみを経てたどり着いたのかを出来得る限り知りたいと思う。
(子供の頃、目覚まし時計を分解して、また組み立てたのと似ている、かな?あの時は組み立てられずに庭に埋めちゃったけれど。)

そうするとリアルなマチエール(素材感)を感じることがある。
それと同時にテクスチュア(素材の構成感)も見えてくる。

前者の“素材”は楽器やメロディそのものの持つ素材感のことであり、絵画で言えば画面に現れる絵具やキャンパスによる質感のことである。
後者の“素材”は作曲の技法によるものを意識し、織物で言えば“機械編み””手編み”と言ったものの肌合いの違いである。
この分類が一般的認知のものかは知らない。
が、僕はそう理解し、カテゴライズしている。

指揮者の立場から楽曲を分析していると、それらを駆使して自分の表現したいものに的確に到達している作品には驚嘆し感動する。
そして、自分が指揮者として表現するにあたっての、目の前に限りなく広がる可能性が見えてくる。
大衆的なものばかりが受け入られやすい一般的なコンサートで、なかなかそう言ったレパートリーに目や耳が向かないのは残念だ。

逆に、マチエールにもテクスチュアにも魅力が少なく、音と和音とリズムの単なる“羅列”を感じる曲にも出会う。
どんなに作曲の着目点やアイディアが優れていても、どんなにメロディが魅力にあふれていても、それ以上には成り得ない。
だが、キャッチーなタイトルやメロディ、分かりやすい構成や奇をてらった楽器法や作曲技法で人気を得ることもある。
そこに喜びがあることも事実だが、僕は表現者としての興味は少ない。
もちろん、作曲者がそれらを意図して構築した作品ならばその限りではない。
それに、アナリーゼしているときにその意図にもっと共鳴しているだろうから。

マチエールやテクスチュアが豊富ならよいというわけではない。
分かりやすかったり奇抜なテクスチュアが悪いというわけでもない。
ただ、意図なく、或いは漫然と生み出されたように感じる作品が好きではないのだ。
作曲家自身の能力と才能にも由るところだろうが。

マチエールとテクスチュア、作曲家の立場になるとちょっと見方が変わる。
僕の今のテクニックではそれらを縦横無尽に使いこなしている、とは言えないからだ。

でも、常に意識している。
人の心に届き、記憶に残る音楽を書きたいが、マチエールやテクスチャを売り物にする曲を書きたいわけではない。
それらも大きな音楽を構成する小さな方法の一つに過ぎず、やはり大切なのは無限に広がる想像の宇宙だと思うから。

自分の昔の作品を(演奏も含めて)、振り返ってみるとギャーッと叫びたくなるような恥ずかしいのもある。
若気の至り、とでも言うか…
P・デュカは一部の作品を除いて破棄してしまったという。
ちょっぴりわかるなぁ…
いつか自分の“若気の至り”を笑って眺められるようになれるんだろうか。

と、いまだに若気の至りを繰り返している僕は、
今日も思う。

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