« 今日の衝動買い、はとうとうジャパネットデビュー | トップページ | ケルヒャー »

2010年4月26日 (月)

ここが家だ

僕は福島県立美術館が好きだ。
15年以上通っている。
山田正晃、アンドリュー・ワイエスの作品にはここではじめて出会った。
以来、機会があるたびに追い続けている。
斎藤清の作品は鎌倉で見知っていたが、ここで深く接した。
もう一人、忘れられない作家との出会いがあった。
その人の名は、「ベン・シャーン」

POPな絵柄とシンプルな線とカラフルな色使い。
なんだか最初は馴染めず、それほど気に掛けなかったのだが、一つの大きな作品の前で足が止まった。
その「ラッキー・ドラゴン」というタブロー画には裸の男性がベッドに腰掛けているのが描かれている。
やはりPOPな顔つきなのだが…なぜか恐い…
うつろな視線の向こうに、明らかに“悪意”に満ちた何かがある。
動きのない画面からは生気を感じない。
しかし、彼の体には無数の赤と青の線が描き込まれている。
紛れもなく動脈と静脈であり、その線が「かろうじて生きている」ことを知らしめているように見える。
不思議に目が離せずしばらく見続けていたが、彼の持つ紙片に書かれた英語の小さな文字を読んで、驚いた。

「私は漁師。久保山愛吉が名前だ。 …中略… 私は9月23日に死んだ」

ビキニ環礁から80マイル離れたところで“原子爆弾”の雲によって被曝した、とはっきり書かれていた。
14万人以上を殺した広島型原爆の、実に1000倍にも及ぶエネルギーの“水爆”の実験だという。

いったい誰が誰を殺すというのか?
事実上防ぎようのない放射能は“毒”とは違う。
解毒剤も治療薬もない。
チェルノブイリ原子力発電所の事故の放射能も、世界中に、日本にだって放射能を飛ばした。
過去の話ではない。今でも続いている。

気付いている人々がいる。
「海も空もつながっている」、と。
知らない人、知ろうとしない人がいる。
「遠い国の、自分とは関係のない話」、と。
さらに、
忘れ去られるのをじっと待っている人がいる。
忘れるように、知らせないように、としている人がいる。

すべては人の仕業。
そしてすべては人に返る。

「ラッキードラゴン」の画を初めて見たときの衝撃は忘れられない。
明るい作品とともに社会的な暗部にも光を当て続けた作家、ベン・シャーンが描いた最後の連作が、このアメリカ国防省の水爆実験による第5福竜丸の被曝事件。
そのタブローたちを使ってアーサー・ビナードが構成し文(日本語!)を書いた本が数年前に発表された。
「ここが家だ」という本。

やっと手に入れた。
押しつけた思想を語るわけでもなく、事実と悲しみと恐怖と、未来への不安がある意味淡々と描かれている。

世界で唯一原水爆が投下された国で、苦しみも悲しみも知っているはずなのに、この国はまだ原子力発電なんぞを続けている。
“もんじゅ”が運転再開しそうだというニュースを見て、「ここが家だ」を読んで、恐怖を新たにした。
漏れ出した放射能を完全に除去する方法は、無い。
使用済みの核を、放射能が消えるまで保管できる容器などこの世に存在しない。
どこか人の目に触れないところに隠すだけだ。
「人の目」?「隠す」?

「ここが家だ」はその矛盾をもう一度教えてくれる。
どこだって、自分の家なのに…

|

« 今日の衝動買い、はとうとうジャパネットデビュー | トップページ | ケルヒャー »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ここが家だ:

« 今日の衝動買い、はとうとうジャパネットデビュー | トップページ | ケルヒャー »