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2010年11月

2010年11月30日 (火)

言霊

曹植子建には及ばずとも、近頃眠ろうと思うと頭の中に言葉や音符が飛び交ってしまう事がある。
溢れて流れ出してしまう事がある。
それを記す術を未だ知らぬのか未熟なのか、いずれにせよまだまだ自分の中には“未来”が隠されているようだ。

それらを整理して一つのシンフォニーにすることが、小さな野望。
ただ垂れ流すのももったいないので、最近は眠れないときは1曲フルート3重奏を書いてからベッドに入る。

もう何曲も溜まった。
音にするとどれも数分の、短く、他愛もないエッセイだ。
どこの誰にも聴いてもらえないのは寂しい気もするが、まあこれは僕の「日記」だ。
日記は人に見せるものでもない。

ただ、不思議なのは、

今のところどの曲にも、春の題名が付いている。

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無題

まあ、そんなこともある。

自分が悪いのか?
まあ、そうかもしれない。
自分が至らないのか?
まあ、そうかもしれない。

自分を責めたり叱咤するのに疲れても、
それでもそれしか道はないのだ。

少し休んで、また歩こうか。
一つまた背負う荷物を増やして。

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J:COMとBS・CS

我が家は引っ越しを機に、電話・インターネット・テレビを全てJ:COMにしました。
(J:COMとは大手のケーブルテレビ業者です)

インターネットは従来どおりなので問題なし。
下りの速度はだいたい8メガほど。
今時では、高速!と言うほどでもないけれど全く問題なし。

電話はちょっと心配でした。
でもNTTの電話は休止の状態で保留して、そのままその番号を利用することで何の抵抗もなく移行できました。
FAXも留守電もまったく違和感なく使用しています。

で、テレビ。
J:COMでは一般的な同軸ケーブルによるアンテナコンセントが居室に設けられます。
そしてそこに来ている様々な信号を分配してテレビやインターネットで利用するわけです。
実は以前インターネットだけを利用していた時にも地デジの電波は来ていて、テレビ契約をしなくても視聴が可能でした。

しかし、他のケーブルテレビサービス、BS放送、CS放送を見るためには自分でアンテナを設置するかJ:COMとテレビ契約をしなければなりません。
新たにアンテナを立てるのも面倒くさいのでテレビ契約をすることにしました。
契約するとSTBという専用チューナーが届き、録画もブルーレイもそれで利用できます。
BSもCSもJ:COM独自のサービスもそれで受けられるようになります。
これさえあれば地デジのチューナーも必要ないワケで、所謂モニターだけあればいいのです。

ただ、他の部屋にあるテレビごとにそのSTB(有料)を置くわけにもいかず、一つのSTBから映像と音声の配線を家中に這わすわけにもいかず、結局他の部屋ではアンテナコンセントに来ている地デジ電波を各テレビのチューナーで観ているワケで…
BSもCSも観れないワケで…
せっかくのパソコンの大容量HDもブルーレイ録画も宝の持ち腐れなワケで…

で、結局何が言いたいか、と言うと、
そんな状況もすっかり忘れて、BSの音楽番組をパソコンで録画しようとしてうまくいかず、悪戦苦闘の上録画はおろか、見逃してしまった、と言うワケです。
くやしい~~
最初からSTBで録っときゃよかった~~

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2010年11月24日 (水)

ノルウェイの森

何度この作品を読んだかわからない。
ワタナベがギャツビーを読むほどには執心していないにせよ。
そして、12年前の自分と再会した。

この作品と共に思い出されるのは、大きな失恋。
そして、いくつかのキーワードの共通点が、生々しくあの頃の自分を蘇らせた。
茗荷谷、自殺、京都の森と西への逃避行、一致する数々の固有名詞、そして厭世と自己嫌悪とコンプレックス。

はっきり覚えているのは初めて読んだ時の衝撃と、大きな失恋の時に読んだ抉るような痛みと辛さ。
現実の喪失感と深い傷が、記憶の底からこの世に呼び戻された感じ。

いつか、それこそ一つの長編物語にして綴りたいことの数々。
新しい経験と記憶の片隅に追いやられて、色褪せて風化してしまったと思っていたけれど、そんなことはつゆもなかった。
今ここでそれを語ることはできないけれど。

物語の冒頭で現在のワタナベが語る心情は、当時は多分ほとんど実感できていなかったと思う。
それを現在のニシムラはかなり理解できる。
代わりに、「ワタナベの昔語りを現在進行形で共感していたニシムラ」は姿を消し、「昔語り的に傍観しているニシムラ」になっていた。
これって、結構淋しく悲しいことだと思う。

生々しく目の前に現れた過去の自分は、やはり「過去の自分」でしかなかった。
痛みは過去のものでしかないにせよ、それでもその傷跡はやはり血を吹いていた。

文章は何年経とうとも生気を失っておらず、そして読みやすかった。
細かい描写や情景が心にはっきりと浮かぶ。
以前読んだ時の僕は果たしてこんな風に読めていただろうか?
そういう意味では、僕も少しは成長してこれたのかもしれない。
情景が明確な分、気のせいか少し色が褪せて感じるのだけれど。

昔よりも僕はこの作品に衝撃も覚えず、そして好感度もあがった気がする。

でもそれはむしろ、
少し寂しいことなのだ。

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ある朝

昨日は朝からしとしとと冷たい冬の雨。
一日中降り続いて、夜眠るときにも屋根を打つ雨音の中。

頭の中のスコアを開いて、ブラームスの事を思っていたのに、
ちょっとウトウトした隙にいつの間にか「Fly Me to the Moon」に替っていた。

実は先日の電車の中でもそうだった。
別の曲の事考えているのにいつの間にか。

とっても印象深い、素敵なアレンジに出会ったのが多分一番の理由。
それにしてもこの曲の歌詞、ちょっと好き。

In other word...(言い換えるとね…)
すごく回りくどいのか、照れ屋なのか、気障なのか、でも結局はストレートに想いを綴っていて。

こんなセリフを上手に言える女性になりたいなぁ…
…いや、もし女の子に生まれ変わったら、の話。。。

リズムを感じるしずくの音がやがて強さを増してノイズの様になり、
でもそれがなんとなく心地よくていつの間にか夢の世界。

… … …
朝目覚めると一転して静寂の世界。
不思議なくらい音がない。
そしてやけに眩しい外の光。

もしや!と思って窓に駆け寄ると、外は一面真っ白な世界。

そんな冬の日の朝を、今から心待ちにしています。

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2010年11月19日 (金)

ノルウェイの森

何回も読んだのに、なぜかおぼろげにしか思い出せない。

忘れよう、と意図的にしているのだろうか?

10年ぶりに読んでみることにした。

記憶の中の自分と、今の自分がきっと向き合う。

楽しみで、

怖くもある。

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今日の衝動…買い?

20101119021613_2 知人から頂いた物を人に譲り、また戻ってきたモノ。
なんだかわかります?

「手回しのオルゴール」です。

パンチ穴の紙は演奏用のロール紙。
自分で作ればどんな曲でも演奏可能。

コンピューターで何でもできる時代から見ると、何ともアナログな一品。
それも手回しなので演奏にはコツがいります。
でも、何とも心くすぐられるものがあります。

子供の頃「自動演奏」にとっても憧れていました。
それも、自分で入力したいという思いが強かったのです。
あの頃にこれがあったら遊び倒しただろうなぁ…
今となってはちょっとめんどくさい…

でも、1,2曲作ってみてあの頃の情熱を少し思い出しました。
限られた音域と機能の中でどんなふうにアレンジすればよい音で鳴るか。
それはなかなか面白いチャレンジです。
それにやっぱり生の楽器(?)の音。
スピーカーから出る電子的な音とはちょっと違うのです。

でも…
やっぱりめんどくさいので、自分で入力して楽しむなら「GRAND PIANIST」に軍配があがるかな。
楽譜ソフト等で書いた物や録音物から演奏用のデータを簡単に作れるので、時々ジャッキーにデモ演奏させたりもできます。

朝夕はもうずいぶん寒くなりました。
毎朝続けている4kmのジョギングも、真っ白な息が日増しに濃くなっていきます。
今年の冬は大阪の冬(商い=秋無い)なんて言いますが、夕日はまだ秋の茜色。
コブクロの「流星」でロール紙を作ってオルゴールで流してみたら、なんだかちょっぴり涙が出そうになりました

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レコードとCD、或いはデジタルとアナログ

音は基本的に空気の振動です。
だから音楽の演奏は空気の振動が耳の鼓膜を揺らし、その情報が脳へ届くのです。
音楽や会話やその他いろいろな音を記録(録音)して再現(再生)することに、人は苦心してきました。

口伝えでしか伝承できなかった音楽を“記録”した画期的な発明は“楽譜”です。
ある音楽を再生するためには、“楽譜”自分で演奏するか演奏家を呼んで演奏させるか演奏会に足を運ぶか、が一般的な方法だったのです。
その頃の人々は我々がCDを買うように新譜を手に入れては流行の音楽を楽しんでいたのかもしれません。

もっと気軽に音楽を楽しむことはできないだろうか?或いはその他様々な欲求と要求によって“自動演奏楽器”が登場します。
オルゴールや自動演奏ピアノやオルガン、後にこの分野は独特の進化を遂げてオーケストラまで自動演奏させたりする“装置”もあったそうです。
演奏者独特のニュアンスや音楽性をある程度まで正確に記録することも可能になり、“生演奏”の再現に一歩近づいた物もあります。
ガーシュウィンが弾いたピアノロール(自動演奏用の記録紙)も残されていて、彼の楽譜の演奏の貴重な資料になっています。
文字通り生の楽器で演奏を再現できるのですから、現代のどんな優れた“録音”よりも“生演奏”を楽しむことができる、と言えるかもしれません。

さてさて、なんでこんな話をし始めたかと言うと、
「レコードのほうが音質が良いって聞いたんですけど、本当ですか?」
との質問を受けたからです。
う~ん、難しい…
ただ、「レコードのほうが音質は良い」とか「レコードの音は暖かい」と言うのには理由があると思うのです。

初めて空気の振動を記録することに成功したのは、かのエジソンです。(他にも同時期に何人もがチャレンジしているようですが、まあ一般論、と言う事で)
簡単にいえば、①音で空気が振動し②その振動を漏斗型の集音器で“針”に伝えて③その針でロウやカーボン板を刻んで溝を付ける、というものです。
その溝に針を通すと、①刻まれた溝を針がトレースし振動し②その針の振動を漏斗型の集音器から聞く、と言うのが再生の方法。
ただ、その振動はとても小さいので、電気的に増幅して記録・再生する技術も進歩して、現在のスピーカーやアンプへとつながっていくわけです。
物理的に溝を刻むのではなく、鉄粉を縫った薄いテープに、振動を磁気に変換して記録する“テープレコーダー”も普及します。
これらはすべて“アナログ録音”です。

利便性や携帯性、その他時代のニーズもあり時代は“アナログ”から“デジタル”へと移り変わります。
CD、MD、DAT、DVD、等は全て“デジタル録音”です。
というか、iPodをはじめ携帯プレイヤーやPCで扱う音楽データもほとんどデジタルですし、テレビやラジオも“アナログ”は消え去りそうです。

さて、やっと本題。
レコードとCD、どちらが音質が良いか?
レコードは物理的に針で溝を擦るわけですから埃や汚れでもノイズが出ます。
テープでも“ヒスノイズ”は避けて通れない雑音です。
これももちろん“音質”の要素(SN比)です。
デジタルで録音されたものは全て電気信号(オンかオフ、0か1の組み合わせだけ=デジタル信号)に変換(量子化)されています。
それを音信号(=アナログ信号)に変換して出力するのですからレコードやテープのような物理的ノイズはほとんどありません。
CDが出始めたときにはそのクリアな音に兎に角度肝を抜かれました。
しかし、それ以外にも“音質”の秘密があるのです。

アナログ信号である“音”をデジタル信号に変換するには“A/D変換”を行います。
「ある瞬間に鳴っている音」を数値に置き換えるのです。(=量子化)
時間は継ぎ目なく流れています。
その時間を切り取って記録するのです。
音の写真を撮る、ようなものです。
その切り取りを1秒間に何回行うか、を“サンプリングレート”という単位で表します。

例えば連続写真を撮ってそれをパラパラっとめくると動いて見えますよね。
1分間に10枚の写真を撮ってパラパラするより、1分間に100枚撮ってもっと高速でパラパラすれば、もっとなめらかに動いて見えます。
つまり、音もできるだけ細かい時間にたくさん切り取ったほうがなめらかになると言うわけです。

ちなみにCDのサンプリングレートは44.1kHz
1秒間に44100回“音の写真”を撮っているのです。
一般的に「録音したい音の周波数の2倍程度のサンプリングレートが必要である」とされています。
人間の可聴域は高音で20kHz程度とされていますからギリギリです。
このことから「CD等では超高音域の録音が苦手で、レコードのほうが優れている」という話が出てきました。
しかしそれは正確ではありません。
確かに一つの側面ではありますが、音質の“決め手”ではありません。
(「1秒間に何回」と言うときの表現にHz(ヘルツ)と言う単位を使う事があります。1秒間に44100回サンプリングする=44.1kHz、1秒間に44100回振動する音の周波数=44.1kHz、と表現が似ているので混同する人がいますが、別物です)

もうひとつ重要なのが“ビット”と“ビットレート”です。
簡単にいえば、切り取って記録する1回あたりのデータの数、です。
(ビットレートは単位時間当たりの転送量)
もうちょっと概念的に例えると「何色の絵の具で絵を描くか」とか「画像の解像度はいくつか」と言えます。
10色より100万色のほうが表現力は幅広いし、20メガピクセルより1000メガピクセルのほうがより緻密な画像になります。
音でも同じことです。
(“ビットーレート”はデータの転送量の単位なので“扱うデータ量”自体を表すとは限りません)

「じゃあ、サンプリングレートもビット数もガンガン上げればいいんじゃない?」
たしかに時間当たりのデータの総量が多いほど正確に元の音を録音できる、と言えます。
しかし録音の機械、録音するメディアのデータ搭載量・転送速度、再生装置の処理速度、等にはおのずと限界があり、闇雲に引き上げるわけにもいかないのです。
でも、技術の進歩と共に高い能力の機器、メディアは次々開発されています。

ところで、デジタルデータの一般的な技術の一つが“圧縮”
送信、放送、携帯、等の為に圧縮してデータ量を減らすのです。
テレビの映像・音声も圧縮されていますし、DVDも圧縮されています。
圧縮する際に出るデータの損失は再生時に様々な方法で補正されたり補填されたりします。
その技術がいくら上がろうとも、本来の音とはやはり違うのです。

圧縮による音質の劣化は明らかなのでデジタルとアナログに話を戻します。
デジタル録音はいわば「点」の連続です。
その「点」が細かくなればなるほど「線」に近付いていきます。
同じように、それだけでは「点」でしかない1枚の画像を連続して再生し、脳の残像を利用して動画に見せるのが“映画”です。
音もある意味脳の錯覚(と言うか残像と言うか)を利用して連続データに見せているだけなのです。
CD程度のサンプリングレート、ビットレートでも音楽が途切れ途切れに聴こえることはまずありません。
でも、脳はもしかしたらその“荒さ”を「暖か味」「なめらかさ」「柔らかさ」が少ない、と感じているのかもしれません。

はアナログの良さを完全に凌駕するものではなく、SACD(SuperAudioCD)やDVD-audioぐらいが標準になればいいんだけど…
一度聴けばその違いははっきり分かると思います。
DVDとBlue-Rayぐらい違います。
mp3等の圧縮モノなんて問題外。

結論的に、レコードとCD、どっちが音質が良いのか?
高性能のスピーカーとアンプ、理想的なリスニングポジションの環境、が整わないなら、言い換えれば一般的なスピーカーやヘッドフォン等での鑑賞ならば、CDで十分。
ノイズが少ない分デジタルに軍配が上がるのかもしれません。

それでもやっぱり、「キチンと聴くレコード」の音は好きだなぁ。
DVDとBlue-Rayの画質の違いに匹敵するぐらい、SACD(SuperAudioCD)やDVD-audioのような次世代規格がもっと普及するまでは、アナログを望む声はまだまだ根強いだろうなぁ、と思います。

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2010年11月18日 (木)

久々にやっちまった話

小学生の頃、良くギリギリまでトイレを我慢したものです。
「トイレに行きたい」と思った時になぜすぐに行かないのか?
自分でもよくわかりません。
下校時、道半ばで限界を迎え、とはいえ誰に見られるかわからない往来で用を足す勇気もなく、冷汗ダラダラの内股歩きでできるだけ急いで、帰宅してすぐにトイレに猛ダッシュした記憶が幾つもあります。

以前書いた気もしますが、むか~しのエスキモーの人たちにとって排便行為は数少ない快楽の一つだったと言います。
氷点下のなか、簡易住居の外にあるトイレに行くには危険を伴います。
だから、ギリギリまで体内にため込んで限界とともに一気に放出する、それはとても快感である、と言うわけです。

まあ、そんな話とはおそらく無関係なのですが…
僕はよく「ガス欠」をやらかします。
高速道路で止まっちゃったことも数回…
坂の上でエンジンが止まり、惰性で坂下のガソリンスタンドに電気自動車よろしく無音で滑り込む、というギリギリセーフの時もありました。

そして、先日久々の、そしてこの車(インプレッサ)になって初めてのガス欠をやっちまいました。
「そろそろヤバいぞ」、と思いつつ、「もうチョイもうチョイ」と乗り続け、ある夜コンビニに行こうとエンジンをかけたらあっという間にエンスト…
(余談ですが“エンスト”をエンジン・ストップの略だと思っている人がいるようですが、エンジン・ストールの略ですよ。どうでもいいけど)
近所にはセルフのスタンドしかないし、時間は深夜…

灯油缶やペットボトルに入れたりするのはとっても危険だし、第一、法令違反である。
と聞いたことがあるのですが、まあちょっとぐらいならいいかな?とガラスの空き瓶を持って別の車でスタンドに向かいました。
途中コンビニに立ち寄り、「漏斗かなんかないかな?または、なにか良いアイディアは?」と考えているうちに自分の作戦はどう考えても不可能の様な気がしてきました。

さりとて良い案も浮かばず、とりあえず最寄りのセルフスタンドへ。
給油機の前で、「さて、どうしたものか」と思案していたら、行動が不審に見えたのか、店員が声をかけてきました。
深夜のセルフでも誰かしら常駐しているものなのですね。

「ガス欠ですかぁ~」

っっ!
なんでわかったんだろう?

すぐさま事情を説明し、5000円の保証金でガソリン用の携帯容器を借り受け、ガソリンを持って帰宅。
腹ペコの愛車に数リットルを注ぎ込み、その車で容器を返しに行きました。
しかし、あまりの気恥ずかしさに、お礼もそこそこに追加給油もせずに這う這うの体で帰宅しました。
まあ、翌日給油に行くぐらいはこれで大丈夫でしょう。

ほっと安心して思い出したのは5000円の保証金。
何となく照れ臭くってず~っと取りに行っていないのです…

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マルチタスク…眠れぬ夜の戯言

今日、車を運転していてiPodに入っている曲をイヤフォンで聴いていました。
その曲を聴きながらカーオーディオから流れる音楽も同時に聴いている自分に、はた!と気が付きました。
「この演奏なかなかいいなぁ(iPod)&ああ、この部分俺はこうしたい!(カーオーディオ)」

所謂「…ながら」が大好きな僕としては、「クルマを運転しながら、お弁当を食べながら、マンガを読みながら、テレビを見ながら、パトカーを気に掛ける」なんてマルチタスクが日常茶飯事だったこともあります。
(今はやっていませんよ!今は!いまはもっとやらねばならないことがあるんです)

マルチタスク、とは主にコンピューターの用語として使われる言葉です。
簡単にいえば「複数の(マルチ)の仕事(タスク)をこなす」と言う事。

厳密にいえば一つのCPUが同時にできる仕事は一つだけ。
各ジョブがそのCPUを占有する時間を分け合う(タイムシェアリング)することで、あたかも同時に幾つもの仕事をこなしているかのように見せるのです。
もちろんCPUが複数あればそれだけ同時処理の量も増えますし、他のプロセッサと組み合わせたり並行計算やマルチコンピュータの概念などに踏み込めば話はややこしくなる…(って、すでにかなりややこしく感じているかもしれませんが…)

まあしつこい解説は、したいけれど我慢して…
人間でいえば、「おせんべい食べながら、テレビ見ながら、宿題やりながら、頭をかく」と言うようなことでしょうか。
このとき、右手は「おせんべいを口に運ぶ、リモコンを操作する、鉛筆で文字を書く、頭をかく」と言う動作を同時にはできないので、順番に(或いはランダムに)その動作を行います。
これがタイムシェアリングによるマルチタスクです。

人間の脳はどうやってタスクをこなしているのか詳しいことは分かっていないようですが、かなり高度なマルチタスクをこなしているようです。
でも僕はなんとなくコンピューターのような「タイムシェアリングによるマルチタスク」なのではなく、「脳の能力をタスクごとに分配している」ように感じるのです。
まあ、コンピューターと同じく、処理が高速なためにそう感じるだけかもしれませんが。

僕は喧噪のファミレスでオーケストラのスコアに没頭することができます。
他の音楽が流れる喫茶店で作曲をすることもできます。
多分これは集中することで他の情報をシャットアウトしているのでしょう。
でも、iPodとカーオーディオ、同時に二つ以上の音楽を聴くってどういう状態だろう?

試しに車を停めて、二つの音楽を集中して聴いてみました。
…たしかに二つ以上を同時に聴いて理解することが出来るようです。
それも二人の僕が同時に聴いているように。

人間(だけではないけれど)はそもそも常にマルチタスクです。
ただ道を歩いていても脳はたくさんの情報を同時に得ながらそれらを取捨選択しつつ処理しています。
でも、「音楽」と言う高度な瞬間情報をタイムシェアリングで処理しているようにはどうしても感じられませんでした。
まるで心が二つに分裂したようで何とも不思議な感覚です。

人間は一度に幾つかの同じ情報を取得することができます。
例えば同時に数人が話した内容を理解する、とか。
しかしそれはやはり時間をずらしながら必要な情報を得ている、としか思えません。
目をつぶって手のひらの感覚だけで、左右に同時に冷水と温水をかけられると脳は混乱して左右逆に認識したりどちらかの感覚が過大に感じられたりするんだそうです。

帰宅後もう一つ試しに「3つの音楽」を同時に聴いてみようとしました。
が、3つになると「同時に数人が話す」言葉を聞いているように、順番に意識の重心が移っていくのを感じました。
僕の場合は「同時に同等に音楽を聴く」ことができるのは2つみたいです。
訓練すればもっとできるのかもしれないけれど。
ただ「同時に聞く」だけならまだまだいくつでもいけそうです。
そしてそれぞれの音楽から情報を得ることもできるでしょうが、多分不完全です。

まあ、そんなどうでもいいことをつらつら考えたよ、というお話でした。
考えてみれば指揮者ってやつはマルチタスクの権化のような気もします。
マルチタスクの能力を鍛えることは案外有用なことなのかもしれません。

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2010年11月16日 (火)

Fagotto

Fagotto_2 高校時代の後輩、テューバを演奏していた友人が修行の末5年程前に独立してイタリア料理のお店を開業しました。
今日は妹とランチデート。
不義理をしてしまっていて、僕はこれが初訪問。

店の名は“Fagotto”
イタリア語では「包み込む」と言う意味があります。
楽器のファゴットともかけているのかな?
楽器のファゴットは「棒の束」の意味らしいのですが、その意味するところは遠からずです。

比喩的に「野暮ったい人」とか「立ち去る」と言う表現にも使う言葉ですが、否定的ではなく「不器用だけれど暖かくて包み込むような落ち着いた人」と言った意味を含めて使います。
楽器のファゴットの音は、そんな言葉がぴったりくる優しさに満ちている、と僕は思います。

お店の雰囲気はまさに「包み込むような暖かさ」に満ちていました。
朴訥に見えるけれどそこにもここにも「お客さんを喜んでもてなす気持ち」が溢れています。

エラそうに語れるほどイタリア料理を食べ歩いたわけじゃないけれど、その中でも本当に1,2を争う美味しさでした。
身内贔屓もお世辞もなく、ここは本当に一度食べてみる価値ありですよ。
特に趣向を凝らしたアンティパストは絶対に食べてほしいところ。
物珍しい食材やこれ見よがしに高級な食材など用いずに、工夫と誠実さが全ての作品を特別なものにしています。
オーナーシェフ“塚PON”の、人をもてなす気持ちがストレートに伝わってくるお料理の数々、是非一度お試しを!
シェフの選んだワインととろりと煮詰めたバルサミコを使った料理との相性には驚きの再発見!

場所は小田急線相模大野駅徒歩5分。
こちらまでお越しの際はぜひ!

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APEC 或いはある日の出来事

その日の僕は疲れていた。
最近は体の疲れも精神的な疲れもあまり自覚することが無く、突然限界が訪れる、って感じ。
その日も自覚はなかったが突然眠気の限界が来た。
渋滞の山手トンネルを避けて首都高を降り、路肩に車を停め少しだけ目を瞑った。

ふ、と目が覚め時計を見ると眠っていたのは僅かに5分ほど。
でも、これでまた走りだせる、と思って倒したシートで大きな伸びをした。
左手に触れたのはこれ、
Dsc00625
鍛えられた精神力と正義の心が無ければ使いこなすことはできない“例の武器”である。

外は薄暗く、ちょっと外の空気も吸いたいし、つい道端で剣舞を少々…

どんな分厚い鋼鉄の扉も溶かし、どんな装甲も一刀両断。
レーザーガンの弾だって跳ね返す。
APEC開催中で警備も厳重な昨今、こんな危険な武器を街中で振り回した僕に咎があるのだが。

車に戻ってエンジンスタート。
ウィンカーを出して右を見ると人影が。
窓をトントンと叩きやけに威圧感のある見慣れた制服の年寄りが、
「ちょっとトランク開けろ」

そこには「危険な武器」が3本もあったワケで…
「これは何?何に使うものなの?」
「あ、これはライト・セイバー。ジェダイの武器です」
「…ちょっと詳しく聞かせて…」

パトカーから年若の警官が出てきて年寄りに解説したようであっという間に無罪放免。

あたりまえだけど。
だけどその高圧的な態度はなんだ!
ライトセイバーで真っ二つにしてやればよかった。

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三国志

基本的に熱しやすく冷めやすい。
ガーっと興味が湧いてすぐ飽きる。
と思っていたけれど、実は一度湧いた興味はどうやらいつまでも心の中でくすぶっている。

最近はなぜか「三国志」
面白い!
司馬遼太郎、北方謙三らのは割りとシンプルで三国志演義等に比べるとかなりストイック。
漫画では横山光輝のものが有名。
他にもすごくデフォルメしたものまで加えると映画、ドラマと枚挙にいとまがない。
と言ってもほとんどは流し読みなのですが…

その中で最近自分の中で再燃したのが「蒼天航路(王☆欣太)」
劉備玄徳を主役に据えた作品が多い中で“稀代の奸雄”と呼ばれた曹操孟徳にスポットライトを当てた作品。

う~ん、俺はどうやっても曹操孟徳にはなれそうもない。
だが憧れる。
でも曹操に憧れつつも共感を禁じ得ないのは劉備玄徳。

なんだか三国志が流行り始めている気配。
金城武が諸葛亮孔明を演じて話題になったレッドクリフ(赤壁)もヒットしたし最近も最新作が評判。
それにしてもやっぱり中国はスケールがでかい。
そんな国を侵略できると本気で信じてアジアの人々を見下し虐殺までした昔の日本の軍人と天皇は…恐ろしい…

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2010年11月15日 (月)

一度きりの輝き

北里大学の演奏会。
毎年途切れることなく指揮をし続けて何年になるだろうか…
毎年その年ごとに輝いていて素敵な演奏。

ワケも分からず先輩についていった1年生。
運営や人間関係や自分のモチベーションに悩む2年生。
運営を主導する立場になり多くの荷物を背負わねばならない3年生。
もちろん嬉しいことも楽しいこともあり、辛いことも苦しいこともあり。
それぞれが自分の精一杯の人生をぶつけて音楽を作る。

大げさようだけど実際そうなのだ。
だけど、ゴールが見えるからこそできるラストスパート。
そこで“無理”や“無茶”もするからこそ思い入れも深くなり、格段の進歩も手に入れて、そしてゴール後の心地よい疲労感と解放感が訪れる。

俺は先生ではないので、せっかくここで出会って一緒に感動の本番を迎えたのなら、そのままずっと一緒にやりたいと思う。
卒業なんてしてほしくない。
あんなにみんな上手くなって、そしたらもっといろんな曲に挑戦したい。
一緒に成長していけたらいいのに。

でもこの感動の最大のスパイスはやはり“一度きりの輝き”
このメンバーでできるのはこれが最初で最後。
こんなに一生懸命になれるのは、きっとこれが自分の最大。
そう思えるぐらいの思い入れ。
それはやはりゴールラインが見えるラストスパートだからこそできたこと。
本当にそれは素晴らしい感動だ。

その輝きは他では得難い特別なものかもしれない。
学生オケではない、プロ・オケや一般のオケの場合はそうはいかない。
ゴールの見えないマラソンのようなもの。
だからあの煌めきの感動にはたどり着けけないように感じてしまうかもしれない。
本番にも慣れてしまい、運営の辛さも続くかもしれない。
たしかにラストスパートを一生続けることはできない。

でも、スパートもかける時もあり、力を抜くときも作り、メリハリをつけて濃い音楽人生を長く続けてほしい、と全ての音楽仲間に心から思う。
どんな本番でも、どんな音楽でもそれはやっぱり“一度きりの輝き”
思い入れ強く全ての本番を迎える事が出来るように。

僕は挑戦し続ける。
絶対本気を貫いてみせる。

とても残念なことに、本番後の打ち上げには出られず…
みんなと演奏の余韻に浸ることなく移動して燕尾服を脱ぐひまなくベートヴェンとブラームス。
まったく疲れを感じることもなく全力投球。
その演奏もとても収穫のある良い演奏だった。
やっぱり音楽って素敵だ。

大急ぎで打ち上げ会場に駆け付けると多くのメンバーが残っていてくれて少しの間だけど“打ち上がる”ことができた。
ホントはもっとがっつり飲みたかったなぁ…朝まで。

帰宅するとこの激動の一週間の疲れが出たのか頭痛と発熱。
風邪みたい。
汗びっしょりで目が覚めるとすごい寂寥感。
パソコンをみると知人からのメールに混じって見慣れぬ名前が数十通も。
それらが全部、「演奏に感動した」「素晴らしかった」という内容。
「思ったよりも…」という枕詞がある方もいらしたけれど…
それにしても知らない方からこんなにメールをもらうのは稀なこと。
ホームページでアドレスを調べてくれたのだろうか。

いずれにせよ、
音楽が少しでも届いたのなら、
とてもうれしい。

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2010年11月 4日 (木)

冬の匂い

冬の匂いがした。
今年最初の冬の匂い。
山の雪化粧も始まったみたい。

“自転車”という移動手段を手に入れた子供の頃、その行動範囲は一気に広がった。
それはもう、毎日が大冒険だった。
“翼”を手に入れたように気持ちで、どこへでも行ける気がした。

大人になって“自動車”に乗れるようになったときの感動はその時と全く同じ。
子供の頃とは比べられぬほど見聞も重ねて世界は広がっていたけれど。
「自分の行きたい所に行きたいように行く」ことができるのは、本当に嬉しかった。

いろんなものを探しに行った。
いろんなものが見つかった。
そんな感動とバイタリティ、ちょっと忘れてるかもしれない。

秋を探しに行く前にどうやら冬が来そうだから、
本格的に自分の心が冬を楽しみ出す前に、
秋のしっぽと冬の始まりを見に行こう。

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