東京都現代美術館
木場の東京都現代美術館を訪れた。
2週間ほど前にも一度来ていて、その時消化不良だったので記憶が薄れないうちにもう一度。
常設展のほか「建設展」と「ゼロ年代のベルリン展」
建築はものすごく好きで興味あり。
今からでも勉強してデザインしたいくらい。
ベルリン展は強烈な作品の数々。
映像作品も多く、前回はゆっくり見られなかったので今回は全てをじっくり。
そして常設展。
目当ての作品の一つは見られなかったものの、「樹」をテーマにした作品群、またその他の現代作品群も素晴らしかった!
僕は現代絵画が好きだ。
技術や時代などそれほど興味があるわけではないが、作品を「知る」上では助けになる。
どんな時代が作家にその作品を描かせ、作家のどんな歴史がその技術を選ばせたのか。
だが、絵を「観る」上ではそれらは必ずしも助けになりはしない。
「偶然性」を基軸に持つ作品にはあまり興味も惹かれないし感動にも到達しない。
一見でたらめな羅列に見えても、そこに人の意志と想いが見えると、平面から風と音楽が聴こえてくる。
現代音楽の楽譜を、読み込んで解読して、そして再構築して自分の音楽にしていく、そんな作業にとても似ている。
いや、古典の音楽でも同じかもしれない。
どんな音楽も常に「その時代の現代音楽」であるのだから。
そもそも絵や音楽、風景の「喜び」「楽しみ」「感動」「快感」とはなんだろう。
「好きな匂い」「美味しい味」「気持ちいい手触り」「心地よいマッサージ」等々、具体的な刺激は理解しやすい。
文字や絵画のような「視覚、映像情報」、音楽や会話のような「聴覚情報」だって五感に基づく刺激の一種と言う意味では味覚や嗅覚、触覚と同じこと。
それぞれが脳の中で互いに影響・反応し合っているのは言うまでもない。
記憶や経験の中の知識、その他様々な影響によって感じ方は千差万別。
思い込みや先入観もその一つ。
納豆が好きな人もいれば、夕陽が大嫌いな人もいる。
ジョン・ケージに感動の涙が出る人もいれば、モーツァルトに退屈する人もいる。
音楽に絞って考える。
生まれてから出会ってきた音楽、接してきた音楽。
親が歌ってくれた子守唄。
テレビから流れる音楽。
やがて、社会が広がっていき、他人からの情報も増えていく。
ここで思うのは、もし他からの情報がなにもなく20年過ごして、突然「音楽」を耳にしたらどうなるのだろうか?ということ。
つまり、音楽に対する「喜び・楽しみ・感動・興奮・哀しみ」等々の感性は経験のみから来るのだろうか?ということ。
僕の中の感性は人から与えられたモノだけでできているのだろうか?
夕陽を見てなぜか感動してしまうとき、そこには太古の記憶がDNAに宿っているからだ、と言う人がいる。
まあ、根拠のない話だが夢はある。
どんな感動も感性も、どのような経験の影響を受けていようとも、その感覚自体は否定するものではない。
また、純粋に自分の中から生まれ出る感覚もあるに違いない。
20歳で初めて「音楽」に触れた少女にも、何かの感動は生まれるだろうし、その多くは純粋な感覚に違いない。
現代的手法の絵画や音楽作品に触れるとき、今までの経験や知識・常識があまり通用しない時がある。
その時こそ自分の中の独自の感性の部分が多く感応するのを感じる。
創った人間の、その作品を産み出すに至った経緯にその起源の答えを求めすぎずにその作品にまっすぐに対した時、また一つ自分の中に新しい感性が生まれる。
そしてあっという間に経験と言う過去に飲み込まれていくのだ。
まあ、そんなことをいろいろ考えつつ、本題の「音楽や絵画の感動とはなんだろう?」について考える。
・・・のは、また今度にしよう。
兎に角、東京都現代美術館で出会った作品に、たくさんの感動をもらって、束の間幸せだったよ。
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