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2012年3月

2012年3月25日 (日)

蒼い月夜の演奏会

子供の頃、祖母と夜の鎌倉山を歩くことが時折ありました。
蒼い月に照らされて、虫の声と足音だけ。
「虫たちの演奏会」と祖母が言った記憶はないけれど、僕は勝手にそう思っていました。
多分それは読んだ絵本の影響。
お客さんはきっとお月さまだけ。

先日、お客さんを(殆ど)入れないコンサートをやりました。
虫たちの演奏会と同じです。

お客さんのないコンサートに、一生懸命、時間を使って、もしかしたら命も少し使って、練習する。
大切な誰かのために。
いや、もしかしたら、誰のためでもなく。
でも、それはとっても素敵な、そして感動的な演奏会でした。

コンサートは録音も録画もできるけれど、本当の感動の瞬間を記録することはできない。
だから感動の記憶は人の心の奥にしか残らない、と思うのです。
だけど、それもやがて薄れます。

”うまくいかなかった恋に 意味はあるのか、って
消えていってしまうものは 無かったものと同じなのか、って“(羽海野チカ)

まだ音楽の道に進むうんと前、あるアマチュアオーケストラの演奏会に行きました。
野球部の僕はイガグリ頭。
クラシックなんて興味無かったし、何の曲だったかも思い出せない。
でも、なんだか心に響いちゃって、で涙が止まらない。

その時思ったのは、「この感動、ずっと続けばいいのに。でも消えちゃうのかな?無かったことになっちゃうのかな」というようなこと。
曲が終わって席を立とうとすると隣のおばさんと目が合いました。
そのおばさん、目に涙をためて…なんてもんじゃなくって、号泣?みたいにくしゃくしゃ。
娘でも出ていたんでしょうか、それともこの曲になにか想い出が?

理由はともあれ、二人で笑ってうなずき合って、何かを確認しあったんです。

お客さんがお月さまだけだったとしても、きっと虫たちの演奏会は素敵だったに違いありません。
ただの自己満足とも違う、何かがそこに在るのです。
ただの自己満足なら、練習なんて辛い思いせずとも、河原でも教室でも、ただ演奏すればいいんです。
それはそれで楽しいし、音楽の意味もあるでしょう。
でも、何かを乗り越えた向こうに在る感動。

”今ならわかる 意味はある あったんだよ ここに“

月夜の演奏会に出して恥ずかしくない演奏を、
客さんのいるコンサートでもやりたいと、心から思うのです。

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2012年3月 6日 (火)

フェイス・ブック

ミクシーは苦手。

その匿名性で、徒党を組んで人を傷つけたり、シンパを作って自分を擁護する悲しい人たちがいるから。
(全員がそうだと言うわけではないですよ、もちろん断じて)

ツイッターはその匿名性で信憑性は薄いけれど、簡単に呟けるのは面白いのでぼちぼちと。

フェイス・ブックは…
自分の想いを吐露する場所としては一長一短。
多くの人に見てもらえる半面、事務的なことや近況報告、人の目を意識した演出が入ってしまったりするのもよく見かける。
ちょっとした面白い出来事を綴るには丁度いいんだけど。

自分のコアな考えや想いを書くと、それを望まない人にも届いてしまうのでちょっと書きにくい。
じゃあ、そんなエッセイは人に見せない日記帳に記せばいいのでは?と言うとそれもちょっと違う。
人に伝えたい自発的な発信なのです。
だから興味がある人に見てもらいたい。

微妙な違いだなぁ…
まあ要するに、素粒子論や量子力学、マニアックな音楽の話、なんて長々とフェイス・ブックには書きづらいしみんなも迷惑かも、と言う事です。

やっぱり、自分の思いを吐露するにはブログ。
というわけで、そろそろ更新いたします。
フェイス・ブックも当面は時々のぞきますが。

まあ、「ダムの話」みたいに万人が望むものはフェイス・ブックでもいいんでしょうね

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「グレンラガン」に見る芸術

心象風景とは、
不可視の現実とは
限界を越えること、
限界の認識を越えること、
想像を越えること、

他人が作った嘘
他人が作った限界
他人が作った現実

自分が作った嘘
自分が作った限界
自分が作った現実

在り得ないことがことが眼に入るたび、
そこに理由を求める
そして謎解きの現実は実態として認識される
しかし、在り得ないことは次々に現れ
限界の認識の愚かさを知る

それでも、想像は創造を越え、
そしてまた新たな想像は新たな創造を産む

在り得ない映像の向こうには、それを現視した者のリアルが宿っている。
その映像から自らの心の眼に映るものは、自分だけの幻視かもしれない。
だが、それは確かにそこに在る。

偶然性の作品に、何らかの無意識の意図が浮き沈みする。
それはその意味でその者の個性であり、リアルだ。
だが本当に偶然性には何の感動も生む力はない。
ただの物理運動の結果だから。

ではなぜ美しい夕陽に涙が溢れるのか。
ただの物理現象の風景だが、きっとそこに、確率の偶然から産まれた生命と「心」の神秘、そしてそこから自分に繋がる道を感じるからだ。
(もっとも、多くは記憶に依るのだろうが)

クセナキスにも、ストラヴィンスキーにも、ピカソにも、デュティーユにも、ユンイサンにも、モーツァルトにも、チックコリアにも、そしてグレンラガンにも在るもの。
像が描く花畑の絵が絶対に持ちえないもの、
それがこの話の本質。

僕ももまた、螺旋の力を信じている

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