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2015年3月

2015年3月24日 (火)

秘儀Ⅲ~その④

◆第2セクション(G)~(M)

・(G)~(H)

ここから8声部の音楽が始まる。

8つの声部は、
①Cl.3,A.Sax.,Trp.
②Fl.2,(Ob.),Cl.2
③Fl.1,(EsCl.),Cl.1,
④Pic.
⑤Horn
⑥(A.Cl.),T.Sax.,Eup.
⑦Trbn.
⑧(Fag.),B.Cl.,B.Sax.

Fig18
譜例1

譜例1は声部①のメロディ。
ここから1小節ずれながら各声部が現れる。
声部①の冒頭の音は「Cis」
ここから厳密に半音ずつ上がる
各声部の冒頭の音は①「Cis」②「D」③「Dis」④「E」
声部④まで来たところで今度は声部①の音から半音ずつ下る。
(①「Cis」)⑤「C」⑥「H」⑦「B」⑧「A」
冒頭の音と同じく他の音も厳密に移調されて各声部が同一メロディを奏する。
続いてppから3小節のcresc.でmp-mf-fとアクセント付きで奏される。
(このアクセント付きのフレーズを僕は勝手に「決め台詞」と呼んでいる)
フレーズは6小節+1小節の空白小節の7小節。
声部は8つ、(G)~(H)間は7小節なので声部⑧は(H)から声部①の次メロディと同時に始まることになる。
このような声部の短縮は後半でさらに強調されて現れる。まるで2重螺旋のDNAのように。

ところで、
この声部の音色変化による音風景を視覚的に実感するためにこんな実験練習をしてみました。
「(1)各声部の奏者は音量のよって手の高さを決める。(2)小節毎のリズム音型にははっきり特徴があるのでリズムごとに振付を決める。(3)実際にカウントに合わせて手振りをする。」
これがとっても面白かったのです。
視覚的に音色の流れゆく風景、言うなれば「音色メロディ」を見ることが出来ました。
聴く人にこのように、カラフルに音楽が届くように演奏したいものです。

・(H)~(I)

第2メロディも同様に譜例2のメロディを各声部が転調しながら演奏する。
Fig19
譜例2(第2メロディ8小節:声部①)

転調のシステムも同様に行われる。
冒頭の音、①「F」②「Ges」③「G」④「As」、(①「F」)⑤「E」⑥「Es」⑦「D」⑧「Des」

全ての声部がp-mp-mf-fと進んで、5小節目から4小節の「決め台詞」に入る、8小節フレーズ。
但し、声部内で休符の部分があり、音色的にも揺らぎが起きている。

しかし、実はその他にも少し「乱れ」が始まっている。
声部①のA.Sax.は2小節目からp-mp-mf-fと進んでいく。
同様に休符から始まる声部①のTrp.はルールにのっとって音量変化していくのに、なぜだろう。
空白の小節も考慮して…とはもちろん考えられない。
また同声部のCl.3とTrp.にはこの揺らぎは見られない…
(J)からの第4メロディには同様の音量変化の揺らぎが大きく現れる。
しかしそこでも声部内の揺らぎは見られないのだが…
楽譜上のミスとも考えにくいが、次の第3メロディではこのような揺らぎは出てこない。
第4メロディでの揺らぎへの布石だろうか。
だとするとここでの揺らぎには意味がある。

さて、
この第2メロディは第1メロディよりも早く音量が上がる。
と言うことは…
例えば第1メロディの声部⑧が(H)でppなのに、(H)の声部①は既に第2メロディが始まって、音量もpになっている。
同様に(H)で第1メロディの声部③はfになっている。
しかし、このような音量の交錯もメロディの要素と音色変化で混乱することなく流れていく…ように演奏するのはなかなか至難の業だとは思うが…丁寧に演奏し、後は聴く人の心にまかせるのが正しいこの音楽の意思だと思う。

・(I)~(J)

第3メロディも8小節。
Fig20
譜例3(第3メロディ8小節:声部①)

転調のシステムは同様。
①「G」②「As」③「A」④「B」、(①「G」)⑤「Ges」⑥「F」⑦「Fes」⑧「Es」

音量の変化も同様。
決め台詞も4小節。
メロディには特徴がある。
第2メロディでは前半4小節は同じフレーズの繰り返しだったが、ここでは少しずつ変化する。
上部の音は変わらず、下部の音が下行していく変化は後に声部を分解する形で現れる。

・(J)~(K)

第4メロディ
Fig21
譜例4(声部①)

①「D」②「Es」③「E」④「F」、(①「D」)⑤「Des」⑥「C」⑦「H」⑧「B」
の転調システムは変わらず。

しかし、音量には意図的な変化がみられる。
譜例のように、スタート位置によって多少違いがあるが、アクセント位置(決め台詞)でfになるように調整されている。
これが第4メロディのルールと言えるだろうか。
これは第2メロディでSax.に現れた揺らぎと同じ。

・声部①⑤⑥⑦はこのルール(例外でTrb.2はフレーズ4小節目でfに到達する)
・声部②は音量変化は(例外でOb.はフレーズ4小節目でfに到達)今までのルール通りだがフレーズの頭からすでにアクセントが与えられている。
・声部③④いきなりfからの開始で、アクセントもある。
・声部⑧今までと同じルール(p-mp-mf-fの後アクセントのフレーズに入る)

そして、声部⑧が「決め台詞」入るまで他の声部は「決め台詞」を繰り返す。
第4メロディの構造は、前半4小節と、同じ音型を半音上げる後半4小節からなっている。
これは全体的に、不思議な高揚感を生む。
それは絵画における「テクスチュア(フレーズのパーツ)」の「マチエール(素材感)」そのままが変化していくように、世界が新しい次元へと動き出す。
そして(K)に入ると今度はそのキャンパスが上下に広がって、さらに異次元の、時間軸まで変動を始める。
これはもう、2次元3次元を超えた芸術だとしか思えない。

さて、気になるのは第4メロディの各声部の振る舞い。
声部⑧は良しとして、声部①⑤⑥⑦も揺らぎとして許容できる。
では、
声部②のアクセントは…?
う~ん…音量変化がルール通りでアクセントだけ付加、とは。
音量がはじめからfならば声部③④と同じ。
譜面通りか、アクセントがミスか、それとも音量がミスか…
声部内のパート(Fl.2,Ob.,Cla.2)すべてに共通している記譜である。
また、声部③④は疑う余地なく「(f)」の記述がある。
これは音楽全体、このセクションのクライマックスへの大きな揺らぎの一部なのだろうか。

しかし、しかしである!
もしも「f」や「アクセント」が間違って配置されているとしたらどうだろう。
コンピューターソフトでの記譜で、コピーや修正のミス等で。
例えばFl.2の106-108小節を99小節のFl.1にコピーしていたとしたらどうだろう。
カッコつきの「f」はFl.2における確認の強弱記号なのかもしれない。
声部②はコピーし強弱記号は直したがアクセント記号は消し忘れたのかもしれない。
第4メロディでは全小節が同じリズム、同じ音程関係。
混乱が起きないと、断言はできない。
そうだとするとここまでの特異点が説明つくのである。

だが、西村先生がそんなミスを犯すだろうか?
やはりそれは考えにくい。
ちなみに西村さんは手書きでスコアを書き上げ、それを出版社が清書・浄書、校訂を行っている。
作曲の経験と知識のある3人以上が楽譜の校訂に携わっており、西村さんにも校正楽譜は確認してもらっている。

しかし、それでもミスは起きる。
例えば95小節目のEsCla.には「f」、97小節目(J)のHrn.1,2にも「f」が抜けている。
複雑に見える現代作品の楽譜である。
楽譜上のミスが残っている可能性も残るのだが…

ということで、特異点として楽譜通り演奏すべきだろう。
しかし、声部②も含めて、ことさらその特異点を強調すべきだとは考えない。
ルールに反した違和感を聴衆が感じられれば、それはそれで成功だし、聴き取れなければ(受け取れなければ)それもまた一つの結果と言えるだろう。
或いは、すべての声部を一意のルールに当て嵌めて演奏するのも、一つの手であると言える。(その後、楽譜上の疑問はある程度解決したのだが、それはここでは書くことはできない…)

音色変化の実験の話でも触れたが、この部分では、多声部の音楽が織をなす。
それはメロディの重なりで生まれる偶発的な和音やリズムと言うよりも、単一声部内に持つメロディの特徴(音量変化ももちろん含めて)が、俯瞰で見た(聴いた)全体の中では音色(特に声部間の)変化が色彩感になり、それが音楽パレットのマチエールとなることに最大の魅力を感じる。
言わば油絵具の塗りや盛りによる素材感や立体感。
そこに生まれる陰影や存在感、質感、が面白い。

この部分の演奏上は、各声部の音響的・音色的特色をよく理解しイメージすることが必要だろう。
まったく同一のメロディが揺らぎの要素を含みつつ、また半音の移調(転調)を重ねながら8重に演奏される、という音楽を初めて(或いは数回)聴いただけで理解するのは難しい。
いや、むしろだからこそ俯瞰で見るように全体像を楽しむことが出来るのだとも言える。
と言うことは全体像の中から生まれてくる特徴的な部分が目に(耳に)留まる。
その部分が「決め台詞」と呼んでいる音楽上のアクセントのピースであり、その、目に留まる部分の音色の変化=音色メロディに聴こえるようになるように演奏するのが良いと思う。
そしてその部分が集約され恍惚と踊る、いや、踊るうちに恍惚となるクライマックス(K~M)へと向かう。

さて、(G)~(K)の打楽器について見てみる。
すると(G)~(I)、(I)~(K)と変化しているのに気付く。
(正確には(G)の3小節目から前半、(I)の1小節前から後半)

Perc.2(B.D.)以外の打楽器は
Fig22_2
patternA-1
Fig23
patternB-1
の組み合わせでできている。

(I)からは少し変化して、
Fig24
patternA-2
Fig25
patternB-2
の組み合わせで構成されている。

Perc.2(B.D.)は既出のリズムパターン(A)(B)(C)で組み合わされる。

(ABC)CBBCBCCBCCBC
BBCCBCBBCCBCBBCCB(C)

前半ではBCの特徴的組み合わせ、後半では発展して固定化されたBBCCBCのフレーズを見出すことができる。

管・弦楽器の昂揚とは無関係に、打楽器は「p」のままで進行する。

つづく・・・

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2015年3月23日 (月)

秘儀Ⅲ~その③

西村先生の「秘儀Ⅲ」の解説をちょっぴり書きました。
しかし、文面での解説にはおのずと限界がありますし、それに自分の覚書、と言うかマニアックな解析なのであんまり現実的ではない、とも考え続きを書くつもりはありませんでした。
が、時間の合間を縫ってちょっとずつ書き足すことにしました。
例によってしつこいので、興味ない方はもちろん読み飛ばしてくださいね。

◆第1のセクションのつづき

・(E)~(F)~(G)

まず、打楽器に注目してみる。
練習番号(E)では、冒頭で解説した打楽器(Timp.,Perc.2,Perc.3)の要素
Fig07(fig.2)
が続けて4小節繰り返される。
Fig15
(譜例1)

そして(E)の7小節目から(F)までの4小節にも同様に現れる。
ここでは、Perc.1(B.D.)のリズムパターンも加わり、さらにPerc.2,Perc.3はリズムに発展(強調)が見られる。
Fig12(パターンC)
Fig14
(譜例2)
そして、(F)の4小節目ではとうとうffでこのフレーズが5小節奏でられる。

この打楽器群の、繰り返し印象付けられる楽想はここまでの打楽器のクライマックスだと位置づけられる。
第1セクションで解説した通り、Timp.,Perc.2,Perc.3はfig.1とfig.2の組み合わせによってフレーズが作られ、Perc.1(B.D.)はリズムパターン(A)(B)(C)の組み合わせによってフレーズが作られている。
当然、上記の譜例1、2、また、(F)からの3小節間、そして最後ffの部分も、fig.1やパターン(A)(B)と組み合わされて一つのフレーズになっている。
つまり、(E)~(G)の上記4つの部分は、第1セクションにおける全打楽器のフレーズの集大成と言える。

一方、管・弦楽器は(E)から新たな要素に変化する。
(G)からが第2セクションの主部であることは間違いないが、(E)~(F)にも第2セクションへの関連が見られる(後述する)
打楽器がなければ、第1セクションは(E)までととらえ、この(E)~(G)は移行部、ととらえるのが妥当ではないだろうか。
おそらく演奏上も(G)の3小節前が第1セクションのクライマックスに感じられる。
(E)の前に「間」はなく、(G)の前には「間」がある。
打楽器群と管・打楽器群のffの一致点から見ても、同位置に第1セクションの頂点は築かれる。

だが、(E)からの移行部の第2セクションとの関連性は思いのほか強いものがある。
(E)~(F)でのテーマは新たな提示として一旦聴衆に認識され、(F)~(G)でかき消された後、(G)に於いて再び認識されるに至る。
この部分の話だけではないが、「静物」の美術への時間的概念の融和が感じられ、まるで動き行く、或いは描かれていく「抽象(心象?)風景画」を見るような心地になるのである。

閑話休題…

(E)~(G)の打楽器には補足がある。
(F)からの2小節間に着目したい。
①「Timp.のアクセントの消失」、これは単に抜けているだけなのか、それとも変化なのか。
②「Timp.,Perc.2,Perc.3は今まで同一のパターンで推移してきたがここで変化を迎える」
③「Perc.1は70小節目からPerc.2は71小節目から、初めてlet ringと思われるスラーの表記が消える」

①は演奏上大きな変化は付けにくい、と考える。
この部分では、全体がfに達しようとも打楽器群は未だmfである。
57,62,63(小節)との違いを奏し分けるのは困難だし効果は薄いかもしれない。
②は、ここで起きるパターンの交錯が聴衆にどのように認識されるかはわからない。
一部には音楽の揺らぎとして感じられ、一部には音響の変化として感じられると思う。だが、それで意図通り、つまりは内包的変化だと思うのだ。
③は作曲者が意図的に書いたものかどうかは疑問が残る。
しかし、演奏者としては楽譜から意図を読み取る努力をまずすべきである。
このffの部分の印象を強めるような効果的な音色の変化が望めるならば、スラーのない速い減速の音にチャレンジするのは何ら作曲者の意図を損ねるものではないと考える。

さて、あらためて
・(E)~(F)
(打楽器については上記で既に触れているので割愛)

明らかな新しい要素が出現する。
(G)からのテーマに親和性を見出すことができる。
しかし(B)からの音列にもやはり関連性は見える。
だからこその第2セクションへの移行部、と言えるのではないだろうか。

Des音から始まるメロディは次々半音の変化(C-H等)を加えながら増大する。
初めの4小節のフレーズは「3小節のcresc.と1小節のf」
次の6小節は「3小節のcresc.と3小節のf」
cresc.部分では半音階での下行、f部分では半音階での上行を伴うところが第2セクションへの融和性を感じる所以である。
(ちなみに、このfの3小節をフレーズの「決め台詞」と僕は呼んでいる」

後半の6小節部分で、なぜB.Sax.とTrb.3のみがf位置が違うのだろうか。
同じ音を担当する声部で既にfに達しているパートもあるというのに。
この両パートは出現位置が他よりも遅い。
つまり、他のパートと同じ比率でcresc.をするならばfまでの時間が足りない=同じ音量(f)まで一気に上げると印象が強くなりすぎる。
と言うのが大きな理由に感じられる。

僕は、音楽上は「fは3小節で印象付けられるべき」なのだが、実演上は両パートの印象は結構強いと考えるので、全体がフレーズ終わりまで微妙にcresc.で進むのでは、と考えている。
この「3小節の強調」は第2セクションでとても大きな意味を持つ。
なので、各パートきちんとアクセントを表現し、無駄なcresc.(無意味な、各奏者の無意識cresc.)はしないように演奏すればよいのだと考える。
その結果生まれる微妙なcresc.はこの部分の印象を滲ませ、次セクションへの移行部たる任務を全うする。

もう一つ。
この部分、(F)の2小節前だけTub.が一オクターブ高い。
メロディ低音の半音階上行形を活かす意図か、それならばなぜC.b.はオクターブ下なのか。
演奏技術的には困難は伴わないので、疑問の残るところではある。

・(F)~(G)

第1セクションを締めくくるようなtuttiの一声がある。
この音列が興味深い。
3つの4分音符の最初の音を聴いてみると、どこか聴き覚えのある響きがする。
オクターブ内に圧縮して並べると、
Fig16
上段の音になる。
下段の音列と比べてみると、一致している。
これは、
Fig17
上段の音階、間に増2度を含んだ、民族音楽等でも用いられる音階。
Aの部分とBの部分はともに「4つの音が半-全-半の関係で並んでいる」ものが二つ並んだスケール。
このAとBの間に全+半(増2度)の隔たりがあるのだが、これを全にしたのが下段の音階。
こちらの方も聴き覚えのあるスケール。
現代の我々にはかなりなじみがある。
所謂、メシアンの「移調の限られた旋法第2番」、つまりはダブル・ディミニッシュ・モード。

音域の変化もあり、モダンな響きがする。

そしてすぐにEs音を中心に一閃される。
(半音上のE音、半音下のD音、全音下のDes音を伴う)

(F)~(G)で一つ謎がある。
なぜOboeがtacetなのか。
音色的欲求なのか、音量や声部のバランスなのか…
オプションの楽器に特別な役割を持たせたのか。
後半でもOboeには同様な役割が現れる。

かくして曲は第2セクションへと入る。

つづく・・・

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2015年3月19日 (木)

秘儀Ⅲ~その②

例によって前置きが長く、なかなか曲の解説に行きつかないわけですが…
漸く、曲の分析を試みます。

今後読み進めるうちに新しい発見やアイディアもあるでしょうが、現段階、と言うことで。
勘違い、思い違い等、ありましたらお許しください。

「秘儀Ⅲ~旋回舞踊のためのヘテロフォニー」

旋回舞踊、と言うのはトルコやロシアで見られる、クルクル回りながら踊る舞踊のようです。
しかし、地域や国を意識することなく、また特定の宗教に限定することなく、その忘我の境地をイメージするべきでしょう。
ストラヴィンスキーの「春の祭典」に見られるような生贄の断末の踊り、踊り狂ううちに恍惚としていく狂気の様子。
伊福部昭先生の「シンフォニア・タプカーラ」で、踊るうちに一つのエクスタシーに達し、力尽きて倒れるまで踊ることを止められない、倒錯の情景。
(アイヌ語のタプカーラは本来、どっしりとした大地に根差した踊りのようです)

曲は大きく4つの部分に分けられます。
すなわち、
①冒頭~(G)、②(G)~(M)、③(M)~(V)、④(V)~ラスト

◆①冒頭~(G)

・冒頭~(A)
打楽器のみによる9小節の前奏から開始される。
アクセントのない小節と
Fig06fig.1
アクセントのある小節
Fig07fig.2
が組み合わさって一つの分子(フレーズ)を作っている。
Fig08
西村さんが「2拍目のアクセントに特徴のある舞曲」と言っているように、2拍目にアクセントのある4,7,9小節目がフレーズのポイント。
つまり(├─4─┼─3─┼2┤)と変化する3つのフレーズ構成。

この変化するリズム構造には、「ターラ」のようなリズム旋律が見られ、このセクションで大きな意味を持つが、曲全体としても根幹をなしている。
フレーズのポイントに出現する「2拍目のアクセント」はやがてこの曲の大部分を占めるようになり、最終的には終着点の一発に集約される!(257小節)

ここで注目しておきたいのはPercussion2のパート、B.D.(バス・ドラム)
他の打楽器に対して別行動する場面が多い。
Fig10(A)
Fig11(B)
Fig12(C)
と、3つのリズムパターンで構成され、組み合わされる。
曲の冒頭でこのパターン(A)(B)(C)が組み合わされて一つのフレーズを導き出す。
Fig00
B.D.フレーズ(1)

前半はこのフレーズを中心に組み立てられる。
インドの「ターラ」からの引用は見つけられなかったが、組み合わされる周期的なリズムパターンは独特の展開を見せる(他のパートほどの周期性はない)
後述するが、練習番号(B)ではこのフレーズ(1)とパターン(C)のみで構成される。
それ以降はこのパターン(C)が中心となる。
このパターン(C)こそがこの旋回舞踊の重要リズムなのである。

・(A)~(B)
この16小節で最初のThemeが提示される。
Fl.1,Es.Cla,Cla.1,(声部1)がメロディと考えて差し支えない。
これをFl.2,Ob.,Cla.2(声部2)が彩る。
この声部2は初めの1小節だけで、①下方にずれる音程(メロディ「D音」に対し「C#音」)、②後から追いかける発音(2拍目の「D音」)、③メロディを先取りする(3拍目裏の「E♭音」)と、すでに多くの可能性を示唆しており、続く2,3小節目でも上下左右にメロディの自由度を広げている。
構造は4(3+1)+3+4+5(4+1)の4フレーズ16小節。
最後の4フレーズ目ではアクセントのズレ(1小節目)、声部の分化(4小節目の声部2)が見られる

打楽器はThemeと連動せずに前奏部のリズムパターンを拡大・発展させている。前奏と同じ(├─4─┼─3─┼2┤)に(├─3─┼─4─┤)を加え、(├─4─┼─3─┼2┼─3─┼─4─┤)とシンメトリーの構造をなしている。
B.D.以外はそれぞれ同じパターン(fig.1とfig.2の組み合わせ)で伸縮される。

B.D.は、前述のパターンで演奏される。
冒頭からのフレーズをパターンで表記を試みると、

(ABC)BCACAB,
(ABC)BCACAB,
(ABC)(ABC)B,  (カッコの(ABC)はフレーズ(1))

となる。
なお、
25小節目の最後の四分音符にはlet ringと思われるスラーがない。
おそらくは、次が休符の場合に短い音と区別するためにスラーが付いているのだと思われる。ここでは次の音がある(Bの頭)ために、スラーがないのだと判断する。

※他の部分でも、①短い音②長い音価③スラーによるlet ring指示、の3つの書き分けがされている。曲が進むとこれにアクセントの有無も加わる。が、全曲を通して調べてみると、B.D.に関しては、次が休符の時にのみスラーの記述があることがわかる。よって僕は長い音価とスラー付の音符は同等の扱いで演奏する。例外については別記する。

二つの声部によるヘテロフォニーと、違う次元のメロディ構造を持つ打楽器群が、早くも緊張感のある不思議な音場を創り出す。

・(B)~(C)
f(フォルテ)のみの演奏だったヘテロフォニーのメロディはp(ピアノ)からの開始になる。
先ほどの2声部に加え第3の声部が現れる(Cla.3,A.Sax.1,2,Trp.1,2,3)
この声部3は初めから内部に多重構造を持ち、一つのメロディの中にエコー効果を加えている。(僕はこの声部3をメインメロディと考える。また、この声部内だけでも3声のヘテロフォニーを紡ぎ出している)
各3つの声部はアクセントの位置、cresc.の到達位置(fになる位置)でその存在を主張する。
4+8(6+2)の2フレーズ12小節の構造を持つが、後半はsempre fで、各声部はアクセントによって存在と共に躍動感を演出する。

この後半からPic.が参加するが、声部3を2オクターブ上方でトレースしている。
実はPic.は単独で重要な任務を背負っている場面が多い。が、一人でも十分な仕事ができるように作曲されている。まったくもってこのバランス感覚にも驚かされる。

一方、打楽器は、ここまでsempre pだったがここからアクセントが登場する。
B.D.以外は(├─3─┤)のフレーズ(fig.1+fig.1+fi.g2)のみで演奏される。
これによって舞曲の印象は決定づけられる。

B.D.を前記の例に倣ってパターン表記すると、

(ABC)(ABC)(ABC)CCC

となる。
(ABC)のフレーズ(1)が中心となっているのが良くわかる。
同時に、ここでは他の打楽器とフレーズが一致する。
そして、大きく見ると、フレーズ(1)+(1)+(1)+(CCC)と大きな分子(├─4─┤(3+1))へと進化している。
このことは、舞曲の印象を強めるのに大きく貢献している。

・(C)~(D)
音量はfで統一。
Hrn.によって第4の声部が登場する。(この部分ではこの声部4がメインメロディと考える)
既出の声部1~3もそれぞれ内部でヘテロフォニーの響きを創り出す。
また、声部内で一つの旋律線を分担演奏する手法も登場する。これは時間的なずれとエコー的効果の両方を生み出している(!)
ここで登場するPic.は独自の要素を持っている。(新しい声部、と言うよりは他の声部の装飾の意味が強い)
演奏上はアクセントの扱いが非常に難しい。
声部4のメインメロディのヘテロフォニーを強調したいところだが、作為的に他の声部のアクセントや音量を操作しても結果は出ない気がする。
つまるところ他の声部も含めての全体の混沌たるヘテロフォニーがやがて大きな旋律線となると考えるからである。

打楽器は前述のフレーズを組み合わせながら進む(├─4─┼─3─┼2┼─3─┼2┼─3─┼2┼…etc.)
B.D.は(ABC)CCBBCBCABBCCCBBBCとなり、フレーズ(1)の支配は崩れ、やがてパターン(C)の印象が強くなっていく。

打楽器群は練習番号をまたいでフレーズを構成している。
しかし、練習番号(C)で音量をmpに引き上げ、(D)でmfに上がるように統一されているのは面白い。
打楽器によるリズム旋律と、オーケストラ全体のおける音量の客観性が見られるのである。

・(D)~(E)
さて、第1セクションの最後の部分になる。
A.Cla.,T.Sax.,Euph.が担当する第5の声部が登場する。
担当楽器は3つだが、第4声部と同じく声部内のヘテロフォニーは2声にて行われる(A.Cla.がオプション扱いのため)
同様に、全曲に於いて、オプションで扱われている楽器の声部は単独声部としては扱われない。
だがOb.は不思議な行動をとる。
このことが音楽にどのような変化をもたらすのか、今の僕にはわかっていない。
そしてここでもPic.が単独声部で登場するがやはりメロディの装飾以上の特別な役割を担っているようには見えない。

前述のとおり打楽器群は練習番号をまたいでフレーズを作るが音量はここでmfに上がる。

ここまでの第1セクションで注目したいのは、増えていく声部とフレーズの伸長である。
声部が増えていき、また各声部の中でもヘテロフォニックな手法が用いられることで、細かい声部の数は格段に増している。
だが、各声部の旋律線、また全体の旋律線は大きく外れることはなく、結局さらに大きな旋律線を醸し出している。

そして一見乱立しているかに見えるアクセントは来るべき恍惚の踊り(2拍目のアクセント)
Fig13(Ex.)
への予感を作り出している。

伸長されるフレーズは、(数字は小節数)
練習番号(A)では3、3、4、4の4フレーズ(空白小節含まず)
(B)では4、6の2フレーズ。
(C)では7小節に伸長。
(D)では12小節に伸長。

なお、各声部の小節数は同じである。

つづく…

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秘儀Ⅲ~その①

s秘儀Ⅲ~旋回舞踊のためのヘテロフォニー(西村 朗)

今年(2015年)の吹奏楽コンクール課題曲の委嘱作品です。
西村朗さんの吹奏楽作品としては4曲目にあたります。
(僕としてはフルートコンチェルトも吹奏楽の演奏会で取り上げたい作品なのですが…モーツアルトの八重奏と同じ編成に打楽器を加えた、管楽と打楽器とフルート独奏の為の協奏曲で、名曲です!)

昨年3月に初めて西村先生と共演する機会を頂きました。
それも、作曲家として同じ土俵で!
高校生の頃から憧れていた邦人作曲家、武満徹・新実徳英・湯浅譲二・三善晃・矢代秋雄…ここで書くには切りがないのですが、とにかく雲の上の存在の作曲家の一人。
(当時矢代さんはすでに別の意味で雲の上の人でしたが…)
音楽大学に入ってから何度か打楽器アンサンブルのコンサートに足を運び、さらに何度かは打楽器運びのお手伝いもしました。
会場で西村さんとすれ違っても声も掛けれなかったのは懐かしい想い出。
まだ西村さんにこの話はしていませんが…(*^_^*)

そんな人と、選ばれた8人の作曲家の一人として共演し、酒を酌み交わす日が来るとは。
ワインを飲みつつお話ししたのは、音楽の思いっきりコアな話で(デュティーユの話、矢代さんの話…等)ここでは書けないリアルな裏話と深い作曲家目線のお話でした。
『バンド維新2014』での一幕です。
西村さんの「秘儀Ⅱ」、新実さんの「AVE MARIA」、の他、高昌帥さんの「Dances for Wind Ensemble」(名曲!やはり天才)、挟間美穂さんの「堕天使の踊り」(話題の注目作曲家)も聴けます。
勿論、僕の「シュレーディンガーの猫」も収録されています。
楽譜もCDも発売中です!
聴いてくださいね!

さて、実は去年のその時期にはすでに今年の課題曲として「秘儀Ⅲ」が委嘱されているのは知っていました。
しかし、その楽譜をじっくり読んで…吃驚、と言うべきかやはり、と言うべきか、これは楽しい!
前置きが長くなりましたが、アナリーゼを試みたいと思います。

まずは西村さんの他の作品と「ヘテロフォニー」について触れて置きたい、と思います。

僕の中での西村作品と言えば、まずはアジアの影響。
特にケチャ、レゴン等で聴かれる、バリ・インドネシアのガムランの香り。
その鮮烈な印象からまず惹かれ、その後、ターラ(インドのリズム)や瞑想の響き(パドマ等)の深いドローンの音塊の世界へと引き込まれていったのです。

続いて聴いたのは「ヘテロフォニー」による作品群。
「弦楽四重奏の為のヘテロフォニー」「ピアノと管弦楽の為のヘテロフォニー」「マリンバと打楽器の為のヘテロフォニー」「永遠なる混沌の光の中へ…」、等々…

「ヘテロフォニー」とは…?
ヘテロと言う言葉、高校の頃の理科の授業で聞いたと思います。
ヘテロ遺伝子接合(Aa,Bb)とホモ接合(AA,BB)。
簡単に言えば「異質なもの」
音楽では、同一の旋律線が数人の奏者によって演奏される際に、即興・偶発的に(或いは故意に)リズム・音程等に於いてずれが生じ、その揺らぎや響きの多様化が偶発的なポリフォニーを生むことを意味します。
そこに音楽的な美意識や、瞑想的な交錯する時間を見出す、それが「ヘテロフォニー」です。

ここで想起されるのが「雅楽」の音楽。
お正月などに宮廷で演奏されたりする、最古のオーケストラと言われる、あのおごそか(?)な音楽。
吹奏楽の古典的名作「序・破・急」は雅楽からとられたものです。
(エヴァンゲリオン劇場版でも題名に使われていますね)

中国、朝鮮半島、を経て日本でも発展した音楽の形態。
ここで聴かれるのが「ヘテロフォニー」の音楽。
笙や篳篥の調べをイメージするとわかりやすいかもしれません。
「ラーガ」(インドの旋法による旋律線)のようなたゆとうメロディが、いい「塩梅」に流れます。

ここでもう一人触れて置きたい作曲家、尹伊桑(ユン・イサン)
朝鮮からドイツ、ヨーロッパで活躍した、投獄された経験もある激動の時代を代表する大作曲家。
彼の「MUAK」や「Reak」と言った作品に聴かれる「雅楽風の響き」
ここにも「ヘテロフォニー」が現れています。
そして踊りのリズム。
そこには規則的な変動が見られ、インドのリズム形態「ターラ」にも通ずるものが感じられるのです。

天才作曲家であり、個人的にも大好きな作曲家の一人、高昌帥さん。
(彼とも去年より親交を持つことが出来、嬉しい限り)
彼ももちろん尹伊桑の影響を強く受けています。
そして彼の作品にもヘテロフォニーの手法を見出すことができます。

ここまでで出てきたキーワード。
「ターラ」「ヘテロフォニー」「ラーガ」
これらは全て、西村朗さんの音楽を読み解くうえで重要です。
そして「良い塩梅」
これは旋律のなめらかな移行と、音程の揺らぎのことで、雅楽から来た言葉なんです。
僕も調べて初めて知りました。

ついでに「八多羅滅多羅」(やたらめったら)と言う言葉から、「滅多」と言う言葉につながるわけですが、この「やたらめったら」の「たら」は前出の「ターラ」から来ていると言うのですから、驚きです。

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2015年3月15日 (日)

ココロの不思議

子供の頃兄弟でよく話した。

宇宙はいったいどこまで続いていて、
ココロはどこからやってくるのか…

今思うに、
ココロとは「意思・意志」だ。
で、意思ははある意味「思考」で、思考はどうやら「脳細胞の活動(電気信号の伝達)」だ。
で、まあ、ここまでは良しとして。

脳細胞はもちろんヒトの細胞の一つで、それは水やタンパク質や核酸等の分子でできており、例えば水分子は水素原子と酸素原子でできている。
で、例えば水素原子は陽子と電子でできている。
で、現在物質を構成する最小の粒子は素粒子と呼ばれ、よく耳にするニュートリノや電子は素粒子の一種で、レプトンやらクウォークやらは素粒子の種類の名。
ノーベル賞で話題になったヒッグス粒子も仲間。

ここでちょっぴり「水素原子におけるシュレーディンガー方程式」について触れたいところだけれど…関係ないので割愛…

さて最初の「ココロ」に話を戻して、
僕は自分の意志で手を動かすことができる。
これは脳細胞の活動による「意思」だ。
で、脳細胞はとどのつまり、素粒子でできている。

結局この世のすべては素粒子でできている、と思われるのだが、この素粒子はすべて「確率」で動いていると言える。
「意思」で動いているわけではないのだ。
言うなればすべてが「偶然」なのだ。
その偶然が積み重なって原子が出来て、分子が出来て、細胞が出来て、人間が出来て、音楽を奏でて愛を語る。

なんて不思議なことなんだろう!
どこからが「意思」なんだろう…
ココロはどこから来たんだろう…

考えてみれば、宇宙の惑星や銀河の構造は原子模型や素粒子の想像模型に似ている。
するとだんだん「宇宙」自体が超巨大な細胞にも思えてくる。
素粒子の集まりのヒトが「意思」を、「ココロ」を持つならば。
「宇宙」も「ココロ」を持つのかもしれない。
だとしたら、いまここに地球が存在するのは「宇宙の意思」なのかもしれない。

極大と極小の奇妙な一致。
それは手塚治虫が描いた「火の鳥」にも登場する宇宙を司る愛の理念につながる。

「ココロ」はどこから来るのか。
その答えを知るのは、すべての原子の位置と運動量を知る

「ラプラスの悪魔」

だけに違いない。

(Compositionシリーズ次回作のタイトルは「ラプラスの悪魔」です)

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肝心なことは目に見えない

狐がそう言うので、そう思ってやってきたのだけれど、
最近本当にそう思う。

大切なことや肝心なことはたいていシンプルで、素っ気ない。
そして、手に入るとあっという間に透明になって見えなくなってしまう。

手に入れたものを見失わないようにするのは、実は結構大ごとだ。
そして、大切なことや肝心なことから消えてしまうから始末が悪い。

積み重ねて手に入れたものは、どうしてどうしてやっぱり肝心で、
それを普通にこなしているみんなを見て、ああ、これが俺の役割なのだ、と思う。

みんなには見えないものが僕には見えた。
だから急に黙った。

それはきっとすごく幸せで、

すごく孤独なことなんだ。

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無題

まあ、辛い事もある。
大したことではないけれど。
いつか報われる、とは信じているけれど。
いつか報われる、と信じるから生きているんだけれど。

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