失う日
某日、父が車の運転を卒業した。
高校時代、16歳(当時は16歳で普通免許が取れた)で取得して以来、ずーっと乗り続けてきた。
スピード狂でもなく、横暴でもない。
実に模範的ドライバーで、速度違反もほとんどなかった。
それでいて、同乗していてちっともイライラしない。
発進も停止も実にスムーズで無駄がない。
ウィンカーのタイミング、ハンドルを切るタイミング、信号や道路状況を見切るタイミング、兎に角「間」が良いのだ。
間が良いと最高速度が高くなくとも到達時間に大きな差はない。
母の運転は対照的で、せせこましい。
渋滞しているととにかく抜け道に突入し、いろいろ走り回った挙句そのまま渋滞にはまっていたのと大して変わらない、と言うタイプの運転。
そんな父がこの春、等々運転を卒業した。
最近、ケガもなく車も大して壊れないような、そんな小さな事故が続いていた。
そんな小さな事故もほとんどなかった人なので少し心配ではあった。
それが、近所で事故を起こした。
それも、それほど大きな事故ではない。
本人にはケガもない。
ぶつかった相手はカーブミラー、約17万円。
しかし彼は運転からの卒業を決断した。
決断するに至る、彼なりの判断基準に達したのだろう。
それについて僕はなんの言葉も持たない。
しかしその気持ちを想う時、とても寂しくなる。
自分の父の老いを目の当たりにして…と言うのも少しはある。
それも含めて、「何かをあきらめる哀しみ」に想い至り、感慨深いのだ。
以前母が言った。
「上高地に行きたい。けれどもう無理かしら…」
どこへでも、いつかきっと行けると思っている。
その気になれば、何にでもなれる気がしている。
本気で望めば、何でも手に入る、と信じている。
それは若さの特権で、夢を実現する原動力でもある。
それをあきらめてしまったら、不可能を認めてしまったら、僕は僕自身ではいられなくなる。
バカだ、ガキだ、青い奴だ、と言われようとも僕自身はそう思っている。
しかしいつか失う日は来るのだろう。
そしてその日への道は確実に始まっている。
老いだけではない。
理由はともあれ、失うものはあるのだ。
しかし、抗う。
夢も可能性も失いはしない。
父の寂しげな後姿と溜息を、
僕は一生忘れないだろう。
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