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2015年5月 5日 (火)

時の流れと忘却と、無知

大好きな、トランペットの大先生がいた。
音色も、音楽性も、人間性も、稀代の銘プレイヤーだ。
若いプレイヤーと話していたら、その名前は知らない、と言う。

時の流れは恐ろしい。
人間が生きた証や、成しえた功績はどこへ消えるのだろう。

「ブルー・ホライズン」と言う曲には「ピーター・グライムズ」と言うB・ブリテンのオペラの曲とそっくりな部分がある。
数小節やフレーズの一部が似ている、と言うのではない。
ほぼ完全な一致。
「ブルー…」しか知らない人に「ピーター…」を聴かせたら、「随分ブルー・ホライズンに似ていますね。パクリ…?」と言う。
いや、先に書かれたのは「ピーター…」

借用や、リスペクトから来る習作もある。
曲中のメソッドや音階、リズムフレーズや定番となりつつあるコード進行もある。
同じような理想の表現を追い求めたら、同じ方法論にたどり着いた、ような例もある。
また、偶然、非常に近いメロディになったるすることもある。
メシアンの考案した音階だって、別の見方をすれば名前が変わる。
あるメロディからバリエーションをしていたら同じメロディにたどり着いた、ような例もある。
これらを剽窃、と言うのはちょっと違う。

また、
変拍子(もちろん場合によるが)は言葉のニュアンスだと思えば、むしろ非常に自然な音楽の流れである、と常日頃思っているが、先日鬼の首を取ったように「知っていますか?変拍子はね…(以下同文)」と僕に言ってきた人がいる。
「ある人から聞いて僕は目からうろこでした!その人すごいでしょう?」と。
いや、世の音楽家はみんな考えていることの一つ。
或いは、自分のために見つけたアイディアの一つ。
そういうのが経験と共にたくさん増えていくわけで。

上記の例は似ているようでかなり違う。
前者の例は無知蒙昧の所業、後者は誰もが通る経験と習得の旅の途中の話。

モノの見方によってココロは変わる。
自分の幸せは、自分で決める。

けれど、知らないのはやはり罪だ。
ユーミンの中にだって誰かの、マイケルジャクソンの中にだって某の、先達の影響を見て取れる。
どちらに先に親しんだか、どちらを先に知ったかで印象が変わるのは仕方ないが、知らなければそれをオリジナルだと信じてしまう。

前出の「ブルー…」だって素晴らしい大好きな曲だし、作曲者も紛れもなく天才の一人だと思う。
けれど、「アルプス交響曲」なくして「アルプスの詩」は生まれただろうか。
「教会のステンドグラス」無くして「ビザンチンのモザイク画」は生まれただろうか。
交響詩「海」なくして「波の見える風景」は生まれただろうか。
オリジナルなくして生まれたものではない。
そしてそのオリジナルの中にも先達の礎はあったり、なかったり…

まあ、作曲や絵画や、作品が形として残る分野にはそういった面は残るが、様々な教えの場や演奏の現場では、「誰が言ったか、作ったか」は問題ではなく、その中身だけが残る。
素晴らしい教えならば、その実績はそのアイディア(人ではなく)の功績として残る。

大切なものは目に見えなくて、やがて透明になる。
痛みもやがて消えて、傷の現実は過去のものとなり、傷痕だけに痕跡をとどめる。
例えば、演奏面で壁にぶち当たったプレイヤーがある教えのアイディアでそれを乗り越えたとき、その教えは透明になって消える。
素晴らしい演奏を手に入れた、そのプレイヤーの中に生き、もしかしたら、また後世に語り続けていくことになる。
或いは、一度その教えがどこかで途絶えても、やがて誰かが再び気づくだろう。
だから恐れず進めばいい。
無知を恐れず、恥をかきながら学べばいい。

知らないことが罪、なのではない。
知ろうとしないことが罪なのだ。

もっと知りたい。
知らなければいけない。
音楽のことも、
間違った指導者が動かす、この国の現実と真実も。

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