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2015年8月

2015年8月30日 (日)

歴史的一日

間違いなく今日は、日本にとって歴史的な日になる。
国民が、民衆が自らの意思によって政治家の作る戦争法案にNOを突きつける日だ。
国民のためと言いつつ嘘を並べる政治に、国民の一つの答えがでる。
 
そこに自分がいられないのは辛いが、全面的に支持します。
 

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始まりと終わり

「始まれば終わる」
これは僕ら舞台人の定番の言葉。
祈りのような、呪いのような言葉。
 
意味は二つ。
早く終わってほしい、という消極的な意味と、
終わってほしくない、という願いの意味と。
もちろん後者のはなし。
 
夏が終わる。
大好きだったあの人たちに会えなくなるのだ。
  
5年間かけて準備をしたオペラが今日終わる。
始まりはいくつもあったが、終わりはすべて今日。
終わりたくはない。
が、終わらなければ次は始まらない。
 
舞台というのは、様々な人の想いの積み重ねで創られる。
このオペラにか変わった人々はそれぞれ、明日をどんな気持ちで迎えるのだろうか。
全三幕の、最後の一瞬をどんな風に越えていくのだろうか。
僕らはみんな知っている。
「終わりは始まりである」と。
  
指揮者、というのはかっこ良く言えば、音と言う名の想いを紡ぐ職業だ。
今回も僕は指揮をした。
ただし本番で指揮は振らない。
もちろん、僕の能力はフルに使ったし、思い入れも深い。
だが僕の想いがどこへ到達するのか、今はまだよく分からない。
 
とはいえ、やはり本番でも全曲カゲで振る。
指揮台も譜面台も置けないので暗譜で振る。
一人で振る。
 
愛すべきオーケストラだった。
素敵な歌声だった。
素晴らしい有能なスタッフだった。
そして、音楽たち。
でも、もっと出来たかもしれない。
出来るに違いない。
 
旅はその道程にこそ目的がある。
と、教えてくれたのは祖母だ。
山に登るようにひとつのステージに挑む。
一歩一歩自分の足で登りたどり着いた頂上では、何故だか涙が溢れて止まらない。
高くても低くても。
 
一つの旅が終わり、また次の旅が始まる。
大きく見ればすべてが旅の途中。
 
今日見る頂の景色はいったいどんなだろう。
僕はどんな想いでそこにいるのだろうか。

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2015年8月21日 (金)

判った気になるなよ、まだなにも解っちゃいない。
出来た気になるなよ、まだなにも出来ちゃいない。
 
未だすべて道の途中で、どこにも行き着いていやしない。
未だどこにも届いちゃいない。
 
でも下を向くなよ、胸を張れ。
在るも無いも認めてしまえ。
 
阿ねるな、しかし卑屈になるな。
真似るな、しかし学べ、盗め。
 
僕らの選んだ道はそういう道だ。
まだ何者にもなれていない自分を、探して紡いで行く道だ。
 
嘆くな、受け入れろ。
諦めるな、抗え。
 
僕らの行く道はそういう道だ。
生きることが道になり、道を行くことが旅になる。
  
判った気になるなよ、出来た気になるなよ。
死ぬまで行くのだ。
この道を。

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2015年8月19日 (水)

失せ物

ああ、もう!
本当に自分が嫌になる!
 
5年も愛用したお気に入りのサングラスを一昨年新幹線に忘れて、すごく落ち込んで、以来ずっとそれに変わるお気に入りを探している。
沖縄でようやく近いものを見つけて購入するもあっという間に紛失。
その後いくつか購入するが気に入らず、最近まあまあよかろうというものを見つけて愛用。
しかし、一昨日新幹線で紛失...
 
ああ、もうこれは仕方ないのかもしれない...
 
悔しいのでネットで3本ほど衝動買いしてやった。

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浜松にて

8月の12日から浜松でホテル暮らしである。
その前の彼方此方への旅仕事と入院生活も加えると、あんまり家のベッドで寝てないなぁ...
浜松を拠点に方々に指揮に出掛けている感じ。
一番きついのはおそらく来週。
新潟と浜松を行ったり来たりが2度ある。
午前中新潟で午後浜松とか。
3時間で移動できちゃうんだから、新幹線ってすごいなぁ。
 
今回の浜松はオペラ「ブラック・ジャック」
親友の宮川彬良さん作曲、田尾下哲さん演出、長谷川寧さん振り付け。
僕は彬良さんのサポート、というか副指揮。
久々の副指揮は、やはり特有の苦悩の連続。
まぁ、もろもろと。
 
しかしやっぱり作り上げていくのはとっても楽しい。
何もないところから大きなものが、図面から立体になり、色をつけ動きを持ち、やがてそこから光を放つのを間近で見るのは、やはり貴重なことなのだ。
 
ミュージカルもオペラももちろん両方やるが、僕はオペラの方が少ない。
オペラをもっとやりたい。
もっといろいろ見てみたい。
 
浜松にははじめ吹奏楽の指揮で関わり、某楽団の常任客演になり、新作ミュージカル立ち上げに指揮と音楽監督で携わり、作曲家として選ばれ吹奏楽作品を委嘱され、そしてまた新作オペラの初演に指揮で参加し、オーケストラや合唱を振り、歌唱指導をする。そしてまた来年の課題曲作曲家として諸々関わることになるだろう。
なんだか、僕のいろんな面を引っ張り出してくれて、くすぐったくもとても嬉しい。
 
だが...
僕のやりたいことを、やりたいようには出来ていない。
それはとても贅沢なことなのだが。
しかし、いつかきっと思いきりあばれられる、そんな気がしている。
僕はこの街が、好きだ。
 
ところで、長年お邪魔している浜松だが、それほどいろいろなところを知らない。
ほとんどホテルと劇場の往復なワケで。
旨い蕎麦屋や焼肉屋、ビリヤードや飲み屋にはもちろんいく。
行きつけのバーは「Triangle」
他で自分の意思で行ったのは「中田島砂丘」と「ざざんざの松」ぐらい。
 
一昨年は長い逗留の最後に思いを込めて砂丘を歩いた。。。という話はこのblogでも触れた。
今回もいろいろ探検したいのだが、今のところその時間が作れない...
 
一月ほど前、やはりオペラの稽古で訪れた際にはお昼頃に二日連続で砂丘を訪れた。
二日間とも、同じおじさんに話しかけられた。
同じ服だったようにも思う...
「あのな、この砂丘は年々小さくなっているんだ。なんでかわかるか?」
わからないので答えを待っていると、黙ってスーっと立ち去ってしまった。
まったく同じ会話(?)を二日間。
。。。
あれは、
砂丘の妖精だったのかな?

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2015年8月10日 (月)

思うところあり。。。

吹奏楽コンクール
審査をすることもあれば、指揮を振ることもあり、、作曲をすることもあり。
しかし、納得のいかない審査には辟易...
断っておくが評価、得点自体にはあまり文句はない。
むしろ高い点をいただいて恐縮するぐらいだ。
しかし、気になるのはコメント。
 
バランス、音程、アンサンブル、音色、の乱れや個々のミス、まあ所謂技術的な指摘は甘んじて受けよう。
わかっているけれど...というところばかりだが。
楽器の選択や配置、マレットの選択や音色感、その審査員の好みも含めて、まあそんなものだろうと思う。
フレーズの運びやアーティキューレーションの処理、全体の印象や、最終的な音楽の説得力について云々言われるのは...う~ん、場合によっては受け入れよう。それもその人の受け取りかただ。
 
しかし...
音楽自体を否定されるときがある。
本当にその音楽と作曲者の意図、演奏者の意思を理解できているのか?
その上でそれを否定するのか?
 
プロ音楽家、アマ音楽家、一般聴衆、それぞれの人の想いや好みで着目する部分や琴線に触れる部分が違うのはわかる。
音楽のポリシーやそこまで学んできたバックグラウンドによる違いも拒絶はしない。
でも、審査するに当たって十分な経験と知識と見識をもってその「音楽」について云々しているのか。
そもそも吹奏楽コンクールはその「音楽」自体を競う場ではない。 

作曲した人の狙いや、またその人の才能や能力もある。
恐れずに言えば、非常に疑問に思う譜面にも出会う。
しかし、優れた楽譜もそうでない楽譜も、その楽譜を読み込み、分解し、理解し、そしてそれを作曲者の意図を損ねることなく、或いは広げるべく再構築するのは指揮者の仕事である。
その領域に踏み込むのはそう簡単なことではない。
我々指揮者の多くは他の人の「音楽」について表立って否定することは、まずない。
きりがないからだ。
 
閑話休題
 
例えば、喜歌劇「こうもり」の序曲のラスト。
盛り上がっていって、最後に急にリタルダンドして最終音をフェルマータする演奏に出会った。
そういえば調も原曲と違う。
明らかに作曲者の意図と違う。
しかし、演奏している子供達は見事に「表現」していた。
その曲を知らなければ、続くストーリーを知らなければ、こう言うものだと思って聴けば、それはそれで生徒と先生の信頼関係の上で表現された、立派な音楽だと思う。
 
作曲者の意図を無視したような、いやむしろ音楽を明らかに破壊する「カット」を施し、奇をてらった滑稽な挙動を加え、それを「音楽」だとのたまう。
それはとっても悲しく、可笑しいことだと思う。
だが、このコンクールと言う一風変わった音楽の場において、数分間のドラマを際立たせるためにその音楽にアレンジと演出を加えたのだとすれば、その音楽に我々「音楽家」審査員は正しく向き合わなければならない。
 
僕はその指揮者と奏者が目指した音楽を堂々と演奏し、そして聴衆がその意を汲めれば、それはひとつの成功だと思う。
しかしまあ、「音楽が間違っていてもよいものか」「いびつな音楽を子供達に押し付けてよいものか」に関しては賛否両論、侃々諤々、ケンケンゴウゴウ、程度問題もあり...
 
結局のところ、有無を言わせない圧倒的な音楽表現の説得力と技術力があれば良いのだと思う。
「技術力が低いと表現も悪く見えてしまう」暗愚な人もいるし、「技術力が低ければ表現も低い」と決めてかかる頑固者もいるわけで。
なのになんで今さらこんなことをいっているかと言うと...
 
今年の課題曲Ⅲ「秘技Ⅲ」についてである。
今まででも多かれ少なかれそういうことはあった。
毎年賛否両論、好き嫌いが入り乱れる。
それはまあ望むところ、むしろそれが自然。
しかし今年のこの曲...ホントにわかってる?
そもそも一点においておよそ課題曲に向かないこの名曲。
それは「乱れも揺らぎもこの曲の魅力のひとつ」という部分。
意図的に乱れを生じさせてそれを「意図的に」認識されたら、その魅力は半減。
 
兎に角、この曲に関しては本当に深く理解をした上で、音楽自体の話をしたい。
 
ピカソの絵に「デッサンが狂ってますよ」と言ってのけるような愚をおかしてほしくはないのだ。

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2015年8月 6日 (木)

秘技Ⅲ~解説

「秘技Ⅲ」~旋回舞踊のためのヘテロフォニー

自分自身のためにアナリーゼと感想を書きました。
あくまで私の私見であり、エッセイを書いたあと見つかった間違いや新たな発見もあります。
が、とりあえず、ここまでで筆を置きます。
 
質問や疑問はいつでもどうぞ。
この場で答えられる範囲では答えていきますね(^_^)

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8月6日

ここは自分の発信地
書きたいことは書く。
 
戦後70年である。
韓国や中国の半日教育を批判するメディアも、日本の操作教育には言を閉ざしたりする。
日本がアジアの国々に、人々に犯した罪は、きちんとした謝罪も贖罪もないままうやむやになろうとしている。
知らないことは罪だ。
知らなければならない。
自分の国が犯した罪を、侵した人々を、犯した人々を。
 
つい一昨日、参議院の鴻池がこう言っていた。
「戦前の貴族院の、軍部の暴走を止められなかった猛省の上に参議院は作られた。参議院は衆議院の下部組織では断じてない!」
驚きとともに聞いた。
自民党のなかでももう認めざるを得ないのだ。
 
その通りではないか!
国民の7割、或いは8割が反対だと言う戦争法案が、なぜ国会を通過してしまうのか。
良心のある記者はこぞってその恐怖を紙面にうたっている。
 
沖縄を訪れた総理が、広島でスピーチをした総理が、いったいどんなに白い目で見られ、やじられたのか。
同じ国の同胞に。
恥ずかしい限りではないか。
福島や合わせて沢山の人々が、いかに苦しんでいるのか。
子供達が病気と未来への不安と闘っているのか。
本当に見ているのか?
知っていてあえてその愚をおかすのか?
「植民地支配」と「侵略」を言葉で認めただけでは何も変わりはしない。
 
現統合幕僚長、河合克俊は「なぜ日本は戦争をしたのか」の問いにたいして、「いろいろと状況判断を間違ったのでしょう」と笑いながら答えていた。
恐ろしい・・・
 
人殺しの練習にいったいいくらの金を使うのか。
北富士のばあちゃんたちが、今も原初の響きとともに闘っているのをみんな知っているのだろうか。
その頭上を、人殺しにしか使用しない戦車の砲弾が飛んでいく。
一発打つのに数百万円。
そんな金があるなら、もっと音楽隊に使ってくれれば良いのに。
 
僕にできることはわずかかもしれない。
でも、口は閉ざさない。
考えることも、知ることもやめない。

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2015年8月 3日 (月)

秘技Ⅲ~演奏④

いよいよ第4セクション。。。
なんて言ってなかなか始まらないわけですが。。。(^_^;)

Timp.奏者にとって鬼門とも言える難所。
テクニック的に難しいとは思わないのですが、まぁ。。。けして楽ではないですよね。
2小節のモチーフを二つ並べて4小節からなるフレーズが6回cresc.しながら繰り返されるわけですが、多かれ少なかれaccel.が生まれます。
完全にテンポをあげずにやるのも、生まれてくる抑揚に”ある程度”寄り添うのも、もちろんアリ。
でも、野放図に流されてしまうとTimp.はかなり苦しくなります。
指揮者はTimp.をコントロールすると言うよりは、Timp.とコンタクトを取りながら全体をコントロールするのが良いと思います。

そんなTimp.とともに「V」では今までの要素が同時に登場します。
躍りのリズムをキープしつつ、音量が上がりすぎないようにするべきでしょう。
そんななか現れる「ff」の高音メロディ。
 
宴もたけなわ、祀りも最高潮、お酒も入っているのかもしれません、なんと言いますか、「イっちゃってる人」が登場するわけです。
三国志で曹操が帝の前で剣舞を踊り、楽隊が最高潮で狂ったように演奏する様のようでもあり、
永井豪の名作「デビルマン」で飛鳥了と不動明が、デーモンとの合体を目して参加した、理性をかなぐり捨てるためのパーティーで苦悶の表情とともにエクスタシーに到達する女たちのようでもあり、
バレエ「春の祭典」で、体力の限界の果てまで踊り続けた末に血を吐きつつ絶命し、それでも恍惚の表情を浮かべる血の生け贄のようでもあり...
まあ、そんなおどろおどろしいイメージにたどり着かなくともよいのですが、全体がまだ小音量のなかで登場する「ff」のメロディには、何かしらの「狂気」を感じずにはおれないのです。
喘ぐようにブレスをしながら歌う(叫ぶ?)メロディです。
区切りをつけることにあまり意味があるとは思いませんが、便宜的にはこのメロディ以外のパートは、4小節の単位を持っていると言えます。

「W」で指揮者は、Timp.とのリンクは続けつつ3小節の単位で進むオーケストラに、正しいドライブをキープしたまま2小節の空白を作ってもらわねばなりません。
3小節毎の出現位置の指示だけに終始すると、大抵ドライブにはまらず、モタモタします。

「N」の入りは、Timp.とB.D.を強烈に一致させるために、ちょっと狙い待ちする手もあります。
仕切り直す感じ。
これは意外とうまく行くことも多く、けれんもうまくつきます。
若しくは、そのまま突っ込んで、B.D.がTimp.に合わせるか。つまり奏者合わせ。
僕が思うには、「V」~「X」に少しでもストレットがかかるならば前者の方法、ドライブをキープしたまま緊張感を持続できるならば後者の方法が良いと思います。
僕は前者。
 
「X」の5小節目のcresc.を強調したいので、そのパートはTrb.Euph.のcresc.につられずにちょっと我慢するのが良いようです。

「Y」の前6小節の四分音符は、僕はマルカートでやってもらいます。
あまり特別な意味をもってもらいたくないのです。
ここの主役はB.D.!
たった一人で躍りのアクセントを奏します。
そしてEsCla.にある、1オクターブの強調。
もしEsCla.がないならば、1stCla.の一人だけこの音をやってみてはいかがでしょう?
しかし、この部分の頭のTimp.とB.D.は決まらないことが多いです...
片やロール、片やtacetで、ドライブのずれだとは思うのですが。
 
「Z」は小節、つまり、四分音符3つづつを強調することなく、ビートをあおっていってアクセントに突入するのが良いと思います。
オーケストラから生まれてくる崩壊寸前への突っ込み感、が面白いと思うのですが、実際に崩壊してしまうことも多々あり。。。(^_^;)
安全策としては指揮でコントロール。
でもおすすめしません。
 
最後の一発は、まあいろいろ考え方はあるでしょうし、好みもあります。
①「せーの!」「1、2」とQueをだす方法。
具体的には、255小節目の最後の四分音符を下にとり停止→テンポ感をもって下向きに小さく1をとり、上向きに振り上げてから叩きます。
この方法はずれることはまずないものの、無駄な拍、無意味な空白、が生まれがち。
いわゆる「バレる」状況。(ここで言うバレる、とは意図が見えてしまってちょっとしらける状態)
全くおすすめできない方法ですが、結構こうやっている方もいます。
最終手段と言うことで。
②テンポで振り上げてQueをだす方法。
255小節目の最後の四分音符を下にとり停止→そこからテンポで振り上げてアタック。
こちらの方が①よりは緊張感は出ます。
しかし、上記二つの方法はテンポを出さねばならず、そのプレパレーション中にちょっと「バレ」てしまうのです。
テンポはa tempoなのか、それとも早いテンポの継続か?
いずれにせよ、けれん味はつけにくく、あまり面白い音楽とは言えません。
 
もうひとつ、「255小節目の最後の四分音符を下にとり停止」ではなく、そのままの拍子を振って止まる方法も紹介します。
つまり、255小節目の頭を振って止まるか256小節目の頭を振って止まるか、の2種類。
どちらの場合も下で止まります(上で止まる方法は後述)
256まで振るのはかなりダサいですが、G.P.中のテンポのキープは容易いです。
255までで止まったとしてもG.P.中のテンポキープは楽です。
この後、前出の①の方法でも②でも、どちらの方法で振り上げたとしても、テンポーキープでやるのは簡単です。
この方法を奨励している指揮者の方も見たことがあります。
でも、いくらやり易いからってG.P.なかにテンポ感があるのはやっぱりカッコ悪いし、避けてほしい方法。
 
ここで忘れてはならないのは、「最後の一発のリズム感」
ただの一発だったら小節頭で事足りるわけで。
そうではなく、「2拍目にあるアクセント」がほしいわけです。
だから、絶対に1拍目の拍感は必要なのです。
 
だけど、G.P.中は緊張感もって停止したい。
長すぎると冷めるし、短すぎると効果がない。
で紹介するのが上級用。
③255小節目の最後の四分音符を下にとり停止→テンポと関係なくゆっくり振り上げ、振り降ろしのみでテンポを作ってアタック。
この方法だとプレパレーションのバレはなくなります。
振り上げの時間は歌舞伎のように見えて面白い。。。けど、わざとらしくもあり。
でも某先輩指揮者はかっこよかったなぁ(^_^)
④255小節目の最後の四分音符の位置、上で停止→そこから振り降ろしのみでテンポを作ってアタック。
この方法は停止時間もいくらでも演出でき、けれんもすこぶる強く、申し分ない効果。
停止中にわずかに動いたり、身ぶりを加えたり、も可能です。
 
振り降ろしのみで1拍を感じさせることは練習次第で十分可能です。
 
究極的には、
⑤直接運動にて拍のみを伝える
でも演奏は可能です。
そして恐らく、それほど難しい話でもありません。
打楽器に任せちゃってもよいわけですから。
まあ、僕の年ではなかなかやりにくいですが。。。
80歳ぐらいになったらできる、かな(^_^)
 
 
 

。。。おまけ
「K」~、「U」~、がうまく振れない、という話を時々聞きます。
1小節中「1,2,3」の「3」を下でとる振り方、の人が良く陥るようです。
ただ「待つ」ために「3」を下で感じるのはやめた方がよいです。
 
サブディバイド(分割)で「3」を下や途中でとるのは、①テンポが遅いとき②「3」の裏等を示したいとき③テンポを安定させたいとき、などには有効です。
僕も良く使います。
が、①テンポをあげたいとき②表現を加えたいとき、などにはまったく身動きがとれません。
 
「K」や「U」では僕は音を長く演奏しています。
つまり遅くなる要素があるのです。
そこで、
「1,2,3」の、「1」を早く振り上げて「2」を上でとり、振り下ろすなかに「2,3」を作って粘りとコントロールをやり易くしています。
いわゆる斎藤先生の指揮法で言う「スフォルツァンド振り」の振り上げに近いのです。
 
。。。おまけ2
旋回舞踊ですから、腕では3拍子の舞踊を振りながら、体は旋回してみたらどうでしょう?
先日試してみたらちょっと具合悪くなりましたが。。。(^_^)

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2015年8月 1日 (土)

秘儀Ⅲ~演奏③

さて、名曲との呼び声高い「秘技Ⅲ」を読んでいますが、世の中での評判はいろいろのようですね。
今年はこの曲ばっかりになるだろうなぁ、と思っていましたがさにあらず、やはり中高生には取っつきにくいようで、演奏団体は然程多くはないよう。
でもそれはもしかしたら指揮者や指導者の方が二の足を踏んだのでは?とも思えるのです。
しかし、やっぱりこの曲は、良い曲です。
 
演奏面からの考察もいよいよ最終第4セクション。
 
その前にちょっと前節の補足を。
(まぁこのエッセイ自体が補足みたいなもんですが)

「K」の上声部の八分音符、僕は長く演奏します。
つまり、次の拍ギリギリまで引っ張ります。
すると休符を挟んで、次の音符の出が遅くなる人が少なからず出ます。
しかし何度か練習するとこの方が切迫感が作りやすいことに皆気がつきます。
ブレスがきつくはなりますが...
 
「L」に入ると小節を越えるパートが出てくるわけですが、(例えばA.Sax.2の「L」頭の音)その音は長くならないようにした方が全体がしまるようです。
しっかりお腹でタイミング良く切ります。
ただし、八分音符を抜いてから押し直すと、タイミングも遅くなり、音も休符も長くなり、次のスタートも遅れ、良いことなしです。
ここでもつくづく思うのが、大切なのはドライブ感。
言い換えれば、どんな音符も一定の細かいカウント粒子の上に存在するということ。
そして奏者各々が正確に、そしてスタートから全員がドライブをリンクして外れないこと。
これが大事。
兎にも角にもこの音は短く発音するとうまく行くのが現場での知恵。
 
ちなみに「N」の5~7小節のTrp.Hrn.はスラー最後の音も長くした方が滑らかに聴こえます。
 
「S」からのフレーズ、八分音符3つはやはりどうしてもcresc.になりがち。
立ち上がりが悪い、発音が悪い、等の原因がほとんどですが、こんな手もあります。
例えば、八分音符ごとに音量を数字で当てはめてみます。
「p」の部分の3つの八分音符は「321」
「3」の音量で始まって「21」とdim.します。
「mp」はちょっと大きくなって「432」
「mf」はちょっと減衰が減って「655」はじめの音量もあがっています。
「f」では「999」3つとも同じ音量になり、はじめの音の音量も上昇率が上がっています。
これだけでも結構効果がありますから遊びがてらやってみるとこの部分のイメージがつかみやすいかも。

「R」からのテンポアップ、打楽器が停滞すると全体がほころびます。
すなわち、管弦楽器が動き出したのに気がついて追いかけ始めた打楽器群が急激なaccel.を産み出し、結果的にうまく聴衆を惹き付けられないことがあるのです。
さらに、現在のテンポを追い抜いて、また戻ってこようものならその停滞感はrit.さえ感じさせるのです。
焦らず、しかし確実に坂道を登り続けたいところです。
 
「V」は、その前でうまくエキサイティングな音楽の高揚を作り出せれば、あまり大袈裟なテンポダウンをしなくてすみます。
前述「R」のような事象があるとスピードが上がりすぎ、結果的に急激にテンポを落とす必要が出てくるのです。
僕はこの部分、Timp.奏者のテンポ感に任せます。
と言っても、ひとつ前のエッセイ(演奏その②)で書いた通り、暗にテンポは示しています。
ともあれ、Timp.奏者が叩きやすいのが一番。
正直なところ、速めのテンポの方がこの後の乱れが目立たず済むのですが。。。

ところで、「P」「R」の入りに見られる八分音符。
とっても乱れます。
というか、なかなかうまくいきません。
原因は大別すれば三つ。
①発音が悪い②ドライブが悪い③2小節前の切り方、または他のパートの切りに惑わされる(長く休みすぎる)
まず、指揮できちんとテンポ感ときっかけを出して、正確に合わせます。
3拍目にサブディバイドなどを入れてきちんと振れば、まず間違いなく正確に演奏できます。
うまくいかなければ指揮を見ていないか指揮が悪いか。
Tutti時、各奏者のドライブがカンペキならば指揮を見ないでも合うでしょう。
でも、2小節前には四連符等もあり、むしろ全体のドライブは揺らいで見えるものです。
正しいドライブをキープしたままで指揮者がコントロールする、或いはTrb.やHrn.が自分達でアンサンブルを整え、小節頭で出るパートもそれに合わせるか...

「打楽器や他のパートを良く聞いて合わせましょう!」なんてことを言う人がいますが、笑っちゃうぐらいナンセンス。
下を向いたり楽譜に意識を注いだまま他の音を聴いたって、もうすでに遅いのです。
Timp.の音を聴いて自分の音を出した時、そのTimp.の音はすでに会場に届いているわけで。。。
でも、もちろん先生方だってそれは本能的にわかっているはず。
あえて言うなら「他のパートをしっかり感じて(知って)演奏しよう!」
アンサンブルは過去にはなく、未来にのみあるのですから。

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