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2015年8月10日 (月)

思うところあり。。。

吹奏楽コンクール
審査をすることもあれば、指揮を振ることもあり、、作曲をすることもあり。
しかし、納得のいかない審査には辟易...
断っておくが評価、得点自体にはあまり文句はない。
むしろ高い点をいただいて恐縮するぐらいだ。
しかし、気になるのはコメント。
 
バランス、音程、アンサンブル、音色、の乱れや個々のミス、まあ所謂技術的な指摘は甘んじて受けよう。
わかっているけれど...というところばかりだが。
楽器の選択や配置、マレットの選択や音色感、その審査員の好みも含めて、まあそんなものだろうと思う。
フレーズの運びやアーティキューレーションの処理、全体の印象や、最終的な音楽の説得力について云々言われるのは...う~ん、場合によっては受け入れよう。それもその人の受け取りかただ。
 
しかし...
音楽自体を否定されるときがある。
本当にその音楽と作曲者の意図、演奏者の意思を理解できているのか?
その上でそれを否定するのか?
 
プロ音楽家、アマ音楽家、一般聴衆、それぞれの人の想いや好みで着目する部分や琴線に触れる部分が違うのはわかる。
音楽のポリシーやそこまで学んできたバックグラウンドによる違いも拒絶はしない。
でも、審査するに当たって十分な経験と知識と見識をもってその「音楽」について云々しているのか。
そもそも吹奏楽コンクールはその「音楽」自体を競う場ではない。 

作曲した人の狙いや、またその人の才能や能力もある。
恐れずに言えば、非常に疑問に思う譜面にも出会う。
しかし、優れた楽譜もそうでない楽譜も、その楽譜を読み込み、分解し、理解し、そしてそれを作曲者の意図を損ねることなく、或いは広げるべく再構築するのは指揮者の仕事である。
その領域に踏み込むのはそう簡単なことではない。
我々指揮者の多くは他の人の「音楽」について表立って否定することは、まずない。
きりがないからだ。
 
閑話休題
 
例えば、喜歌劇「こうもり」の序曲のラスト。
盛り上がっていって、最後に急にリタルダンドして最終音をフェルマータする演奏に出会った。
そういえば調も原曲と違う。
明らかに作曲者の意図と違う。
しかし、演奏している子供達は見事に「表現」していた。
その曲を知らなければ、続くストーリーを知らなければ、こう言うものだと思って聴けば、それはそれで生徒と先生の信頼関係の上で表現された、立派な音楽だと思う。
 
作曲者の意図を無視したような、いやむしろ音楽を明らかに破壊する「カット」を施し、奇をてらった滑稽な挙動を加え、それを「音楽」だとのたまう。
それはとっても悲しく、可笑しいことだと思う。
だが、このコンクールと言う一風変わった音楽の場において、数分間のドラマを際立たせるためにその音楽にアレンジと演出を加えたのだとすれば、その音楽に我々「音楽家」審査員は正しく向き合わなければならない。
 
僕はその指揮者と奏者が目指した音楽を堂々と演奏し、そして聴衆がその意を汲めれば、それはひとつの成功だと思う。
しかしまあ、「音楽が間違っていてもよいものか」「いびつな音楽を子供達に押し付けてよいものか」に関しては賛否両論、侃々諤々、ケンケンゴウゴウ、程度問題もあり...
 
結局のところ、有無を言わせない圧倒的な音楽表現の説得力と技術力があれば良いのだと思う。
「技術力が低いと表現も悪く見えてしまう」暗愚な人もいるし、「技術力が低ければ表現も低い」と決めてかかる頑固者もいるわけで。
なのになんで今さらこんなことをいっているかと言うと...
 
今年の課題曲Ⅲ「秘技Ⅲ」についてである。
今まででも多かれ少なかれそういうことはあった。
毎年賛否両論、好き嫌いが入り乱れる。
それはまあ望むところ、むしろそれが自然。
しかし今年のこの曲...ホントにわかってる?
そもそも一点においておよそ課題曲に向かないこの名曲。
それは「乱れも揺らぎもこの曲の魅力のひとつ」という部分。
意図的に乱れを生じさせてそれを「意図的に」認識されたら、その魅力は半減。
 
兎に角、この曲に関しては本当に深く理解をした上で、音楽自体の話をしたい。
 
ピカソの絵に「デッサンが狂ってますよ」と言ってのけるような愚をおかしてほしくはないのだ。

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