国立新美術館とルノワール
もう一つ驚いたのが、有名(らしい)な「ムーラン・ギャレットの舞踏会」はきちんとモデルを雇って描かれた作品だ、と言うこと。
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新潟の美術館で有元利夫展を見た。
海の近くのこの美術館を訪ねるのは実に7年ぶり。
氷のような雪の降る中、シンプルな建物は静かにそこにあった。
実はこの7年の間数回ここには訪れている。が、運悪くその悉くが閉館日だったのだ。
有元利夫の作品は何となく知っていた。
不思議な構図と女性の不思議なデフォルメ。
そして、音楽との接点。
38歳の若さで逝ったのは夭折としか言いようがないが、どこかやはり大好きな一世代前の作曲家矢代秋雄を思い浮かべる。
彼らの基本的なエクリチュールは、古典的な其れであり、しかしそこから生み出される作品は新鮮で斬新で鮮烈で、独自のマチエールを持って描かれている。
そのマチエールは決してそれ自体は強く主張せず(有元は紙やすりであえて削っている)しかし、感じずにはおれない。
有元の印象的な言葉はいくつもあるが、子供の頃の音楽の授業を語った文章がある。
要約すると、「音楽の鑑賞の授業で教師にベートーヴェンの音楽についての口述を求められ「じゃじゃじゃじゃーん、という音楽です」と答えたところ火のように激怒され、それ以来僕はクラシック音楽が大嫌いになったのです」、という話。
芸大に学びながら音楽家の学生とも交流を持った彼はバロック音楽に強く興味を持ち、数曲作曲までも試みているのだから、結局は音楽好きだったわけだが。
僕も中学生の時、似たような経験がある。
その授業で教師はムソルグスキーの「はげ山の一夜」のレコードをかけた。
そして、「この曲を聴いた感想を絵で描きなさい」と言う。
僕は拙いのはもちろんながら、激しく嵐の海に揉まれる船の絵を描いた。
レコードが終わると教師はある生徒の絵を紹介した。
枯れ木がところどころに不気味に立つ寒々とした山の頂で、グロテスクな化け物(?)達が踊り狂っている絵だった。
「よく描けています」
といった後にもう一枚の絵を広げた。
僕の絵だった。
僕は誇らしかった。
きっと素晴らしい、とほめてくれるに違いない、と。
しかし、教師はこう言った。
「残念ながらこの絵は不正解です」
この時受けたショックは忘れない。
「正解ってなに?」
曲は言わずもがな、はげ山の上で踊り狂う魔物たちを描いた曲である。
だが、当時の僕はもちろんそんなことは知らない。
かなりの生徒が「はげ山の絵」を描いていたことから想像するに、みんな何かで情報、或いは題名を知っていたのだろうか。
こんな授業が今でもあるのかと思うとゾッとする。
世にクラシック嫌いを数多送り出してどうしようというのか。
ちょっと脱線したが…
とにかく有元さんの絵はどこか懐かしく、楽しく、そしてホンの少しだけ、恐ろしかった。
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木場の東京都現代美術館を訪れた。
2週間ほど前にも一度来ていて、その時消化不良だったので記憶が薄れないうちにもう一度。
常設展のほか「建設展」と「ゼロ年代のベルリン展」
建築はものすごく好きで興味あり。
今からでも勉強してデザインしたいくらい。
ベルリン展は強烈な作品の数々。
映像作品も多く、前回はゆっくり見られなかったので今回は全てをじっくり。
そして常設展。
目当ての作品の一つは見られなかったものの、「樹」をテーマにした作品群、またその他の現代作品群も素晴らしかった!
僕は現代絵画が好きだ。
技術や時代などそれほど興味があるわけではないが、作品を「知る」上では助けになる。
どんな時代が作家にその作品を描かせ、作家のどんな歴史がその技術を選ばせたのか。
だが、絵を「観る」上ではそれらは必ずしも助けになりはしない。
「偶然性」を基軸に持つ作品にはあまり興味も惹かれないし感動にも到達しない。
一見でたらめな羅列に見えても、そこに人の意志と想いが見えると、平面から風と音楽が聴こえてくる。
現代音楽の楽譜を、読み込んで解読して、そして再構築して自分の音楽にしていく、そんな作業にとても似ている。
いや、古典の音楽でも同じかもしれない。
どんな音楽も常に「その時代の現代音楽」であるのだから。
そもそも絵や音楽、風景の「喜び」「楽しみ」「感動」「快感」とはなんだろう。
「好きな匂い」「美味しい味」「気持ちいい手触り」「心地よいマッサージ」等々、具体的な刺激は理解しやすい。
文字や絵画のような「視覚、映像情報」、音楽や会話のような「聴覚情報」だって五感に基づく刺激の一種と言う意味では味覚や嗅覚、触覚と同じこと。
それぞれが脳の中で互いに影響・反応し合っているのは言うまでもない。
記憶や経験の中の知識、その他様々な影響によって感じ方は千差万別。
思い込みや先入観もその一つ。
納豆が好きな人もいれば、夕陽が大嫌いな人もいる。
ジョン・ケージに感動の涙が出る人もいれば、モーツァルトに退屈する人もいる。
音楽に絞って考える。
生まれてから出会ってきた音楽、接してきた音楽。
親が歌ってくれた子守唄。
テレビから流れる音楽。
やがて、社会が広がっていき、他人からの情報も増えていく。
ここで思うのは、もし他からの情報がなにもなく20年過ごして、突然「音楽」を耳にしたらどうなるのだろうか?ということ。
つまり、音楽に対する「喜び・楽しみ・感動・興奮・哀しみ」等々の感性は経験のみから来るのだろうか?ということ。
僕の中の感性は人から与えられたモノだけでできているのだろうか?
夕陽を見てなぜか感動してしまうとき、そこには太古の記憶がDNAに宿っているからだ、と言う人がいる。
まあ、根拠のない話だが夢はある。
どんな感動も感性も、どのような経験の影響を受けていようとも、その感覚自体は否定するものではない。
また、純粋に自分の中から生まれ出る感覚もあるに違いない。
20歳で初めて「音楽」に触れた少女にも、何かの感動は生まれるだろうし、その多くは純粋な感覚に違いない。
現代的手法の絵画や音楽作品に触れるとき、今までの経験や知識・常識があまり通用しない時がある。
その時こそ自分の中の独自の感性の部分が多く感応するのを感じる。
創った人間の、その作品を産み出すに至った経緯にその起源の答えを求めすぎずにその作品にまっすぐに対した時、また一つ自分の中に新しい感性が生まれる。
そしてあっという間に経験と言う過去に飲み込まれていくのだ。
まあ、そんなことをいろいろ考えつつ、本題の「音楽や絵画の感動とはなんだろう?」について考える。
・・・のは、また今度にしよう。
兎に角、東京都現代美術館で出会った作品に、たくさんの感動をもらって、束の間幸せだったよ。
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今朝まで青森にいました。
リハは夜だけだったので昼間は自由。
とは言え朝方まで数人の学生と“狩り”に出ていたので、あまりたくさん時間はとれず…
とりあえず、持参した自慢の自転車で「奥入瀬」まで向かいました。
去年も同じ時期に訪れ、同じコースを走りました。
しかし、途中で断念しホルン奏者のHさんに車で拾ってもらった記憶があります。
今年はそのリベンジ。
体調も万全、準備も万端整えいざ出発。
で、快調に1時間(約20キロ)ほど走ったところで休憩。
ここは去年リタイアした『道の駅おいらせ』
黄金色の田んぼをバックに写真も撮り、一息ついて、さあ再出発と思ったらなんだかタイヤが変な方向を向いているような…
なんと、サスペンションのパーツが一つはずれてしまっていたのです。
工具はもちろん持っていたのですが、もうひとつ同じ工具がないと外せない特殊な部分だったので、手も足も出ず…
後で合流予定だったテューバ奏者UPAの車に拾ってもらって結局ここでリタイヤ。
無念…
その後は有名な「蔦温泉」へ。
何とも渋い老舗の温泉です。
ここで英気を養い、夜のリハに臨みます。
指揮者をやっていると本当にいろんな所を旅します。
そこでしか見ることのできない風景、におい、風、人、味、を味わうために、五感の全てを使って旅をします。
ときには第6感も駆使して。
ああ、僕は本当に旅が好きなんだなぁ…
自分の経験値が上がっていく気がします。
そしてそれが明日の音楽への活力の一つになるのです。
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東京国立近代美術館は今日はお休み、休館日…
行き当たりばったりにもほどがある感じですが、気を取り直して乃木坂の新国立新美術館へ。
「どんだけ“新”やねん!」
と突っ込みを入れたくなるほど“新”なのですが、そろそろ落ち着いてきた感じ。
ついさっきまで二科展が開催されていたようですが間に合わず…
それにしてもこの建物、絶対ダムマニアが設計したとしか思えない!
「えぇ~?そうは見えないけど~?」
と思ったそこのあなた、水を抜いたダムか完成直後のダムを見てごらんなさい。
この美術館の内部とそっくりな風景が見られることうけあい。
まあ、ダムの堤体にあるキャットウォークが内側にある…のは変っちゃ変ですけどね。
飛び込みで行った今日は松本陽子さんと野口里佳さんの二人展が催されていました。
テーマは「光」
でも、このテーマで、このお二人である必要があったのか?
「この顔合わせで何かが生まれる」…のか?
この疑念は結局拭い去られることなく最後まで見終わってしまいましたが。
松本さんの描くテーマにとっても、野口さんがカメラで切り取る瞬間にとっても、共に「光」は重要かつ大切な要素。
でも、そこに焦点を定めた作品のコラボレーションではなかったように思います。
ともあれ、両氏の作品自体はとっても楽しめました。
特に、松本さんの抽象絵画は結構好きなのばっかり。
ただ、自分なりに理解していろいろ考えるにはもう少したくさんの作品を見なければなりません。
難解な作品ではなく、むしろストレートにこの人の思考が表れているようには感じました。
今、帰宅してから思うに、なんだかもう一度じっくり見たい気がするのです。
「あ、あそこって、こういうことかな?」っていくつか脳裡に蘇ってきます。
他のいろんな美術館のように、周囲の環境とも融合してそこに「在る」ようになるにはもっと時間が必要なのかも知れませんが、美術館としての機能も意義もものすごく大きなものがあると思わせる、貴重な建物だと思います。
ただ…
駐車場がないので、近所のパーキングに留めてじっくり見たりするとびっくりする料金がかかります。
なにせ六本木ですから…
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この日は府中芸術の森で本番。
移動の空き時間を使ってふらりと美術館へ。
というか、知らなかったよ、ここに美術館があるなんて。
というわけで車を美術館の駐車場に入れて…今時珍しい“無料”でした…わくわくしながら入口をくぐります。
緑に囲まれた近未来的なデザインが不思議といい感じに溶け合っています。
それにしても、美術館とか図書館とか、なんでこんなに気持ちいいんだろう、涼しくって。
今日が特別暑い、ってのもあるわけだけど。
館内で働く女性は結構寒くて辛いのかもしれないなぁ。
入館料は、というと、、、200円。
200円ですよ!今時!
期待でなんだか歩調があがっちゃったんだけど、2階のロビーは夏休み企画の(夏休みは終わってるけど)親子で楽しむ芸術体験みたいなのをやっていて結構賑わっていて、足音もそれほど目立たず。
常設展の展示スペースに入るとさっきの雑踏が全く嘘のような静けさ。
常設展は主に、府中や多摩に関係する絵画や作家の作品。
在りし日の佇まいを映すその数々の画は、なんだか夏の日に縫いとられた風景みたいで、室内の静けさととってもマッチしていました。
一部屋、二部屋、と見て「そろそろ近代の作品も見たいな」と思ったら、出口…
なんと、常設展はこことある作家の記念館だけ。
う~ん、物足りない。
でも、雰囲気といいデザインといい、好きな美術館のひとつになりました。
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カジムヌガタイ
風が伝えるもの
美しい想い出と悲しい記憶と
次の季節の匂い
都会にいると鈍くなるけれど、
そこにもここにもカジムヌガタイはありますね。
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5/1の盛岡の岩手県立美術館。
この日は到着時にはもう閉館時間…翌日に訪れた様子は先日綴った通り。
本当に綺麗な美術館。
福島県立美術館とはまた違った趣。
地方の美術館ではご当地出身の作家の作品にスポットをあてて蒐集することが多いようで。
前出の美術館の場合も例にもれず、常設展示がある。
どちらもそれぞれ味があるのだが…
福島の場合、他の収蔵品と共に同じフロアで展示されている。
福島ゆかりの作家の作品に使うスペースが案外大きくて、もっと見たい他の収蔵作家の作品が少なめ。
盛岡の場合は特別に部屋を設けて展示している。
実はこの日(5/1)はそんな作家のひとり、萬鐡之助さんの命日。
特にイベントがあるでもなく、ひっそり展示されていたが、素晴らしい作品も数多い。
もうひとつ常設展示用の部屋があり、そこにも二人の岩手ゆかりの作家の作品が多数展示されている。
こちらも、この美術館でなければできないきめ細やかな展示で、こういう風にスペースがさけるからこそ見ることのできる作品の数々。
福島もそうしてほしいなぁ…
もっとたくさんの作品がいつも見られるように…
きっとまだ見ぬ美術館にも素敵な作品がいっぱいあるんだろうなぁ。
積極的に見る機会を作ろう、と思う。
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