書籍・雑誌

2016年2月 5日 (金)

魔女の宅急便②

ジブリ作品の「魔女の宅急便」も大好き。
何回見たかわからない。

だが、実は原作本は何巻目かをちょっと飛ばし読みしたことがあるだけ。
だからじっくり読みたかったのです。

アニメや実写と活字、或いは漫画等とはやはり違いがあって、幻滅することも多々あります。
でも、この魔女の宅急便の世界観は、「アニメも原作もほとんど同じ」、と1巻を読んで僕は感じました。

とは言え、挿絵のお父さんはひげが生えてたり、キキやお母さんの風貌がアニメとはずいぶん違うのです。
オソノさんや旦那さんも。
それに登場人物の性格もちょっとずつ違います。
でも読み進むうちに、やがてアニメとはまた違った、けれど何かがきちんとリンクしたままで自分の中のキャラクターが動き出します。

ああ、つまりはこれはアナザーワールド。
でも違和感ではなく、新たな物語へのワクワクの方が勝っています。
作者は角野栄子さん。
ちょっと見え隠れする、「昭和」な語調も、この世界観の中でなんだか懐かしく、新鮮に思えます。
巻が進むうちに途中で挿絵の作家も交代するようですが、きっと受け入れられる気がします。

アニメよりもとっても情報の少ないのが活字の世界。
子供向けに書かれた本なので、活字も大きく、文章も簡潔で短く、まるで詩のようです。
だから、どんな風に笑ったのか、どんな風に泣いたのか、細部は自分で想像するのです。
今の自分は、子供の頃よりももっとたくさんいろんなものを見てきたから、その想像の世界はもっと大きくなっているはず。
子供の頃は子供の頃で、小さいながらもきっともっと自由に想像の翼を広げていろんな本を読んでいたんでしょう。
大人になって情報は増えたけれど、それによって実は自由な発想が硬く小さくならないように気を付けて生きていきたいなぁ。

僕の口癖でもあるけれど、想像力は創造力。
楽譜や活字から活き活きとした、生きた今を創りだすのが僕らの仕事。
アニメや映画や漫画もいいけれど、それは他人の目で見た世界。
ものの見方、見え方の一つの角度であって、それはそれ。
それによって自分の自由な発想が消えてしまってはつまらない、と思うのです。
(まぁ、アニメ・マンガ・映画だって描かれていない、瞬間・情景・心情などを想像するのですから全く違うわけではなく、程度のお話、ですが)

だから僕は基本的には「参考音源」なるものは聴きません。
それは僕らの世界では「レコベン」といって忌み嫌われるものでも(以前は)ありました。

さて、物語はアニメとほぼ同じ時間軸でお話が進んでいきます。
世界観は変わらない(と僕は思う)ものの、登場人物やエピソードはちょっとずつ違います。
概して、アニメの方が近代的、そして現実的です。
ファンタジーの世界に日常を見せて観ている人を引き付けるのは、さすがジブリのうまいところ。
そして原作の中で語られるキキやいろんな人々の心情表現を「一つの解釈」として実際の絵で描いています。

原作のキキとアニメではちょっと描かれている面が違います。
それが、より生身に近く見えたり、逆に非現実感が強く見えたりもします。
だから人によっては「原作の方が現実的」と思える人もいるかもしれません。
でもやっぱり、アニメの方がより限定的なのです(もちろん良い悪いの話ではなく)

この本は児童文学、とは言え、アニメを見た人も見ていない人も、大人でも楽しめるお話です。
恥ずかしながら電車の中で読み進めるうちに、何度も泣いてしまいました。

これからキキは、どんな人と出会い、どんな事件に遭遇し、どんな風に成長していくのでしょう。
すごく楽しみです。

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魔女の宅急便①

魔女の宅急便、届きました。

流石アマゾン、仕事が速い。
でも楽譜は遅い…

今日は電車なので、もしかしたら読むチャンスがあるかも、と思ってバッグに1巻だけ入れて外出。

取材と打ち合わせの後、呑んでいたら終電に…
最近の終電は空いているんだなぁ…
ふつうに座れたのです。

周りは皆、スマホスマホ、またスマホ。
元来長いものに巻かれたくない性格。
特に用事がないのに、あたかも付和雷同的に携帯をいじりたくない。
かといってハードカバーの本を開くのも少々気が引ける…
まあ、絶賛読み込み中のスコアでも…と思ったら、隣の人の漏れ音が…

普段、集中すると雑音はまったく気にならない。
というか、狙った音だけを聞くことが出来るのも特技。
ところが、聴こえてくるのははやり曲ではなく、なぜかラプソディ・イン・ブルー
それも個性的…というかすごくヘタッピでおかしな挙動。
それをエンドレスで聴いているもんだから流石に耳がそっちに行っちゃって。

そこで耳栓を取り出し着用。
耳の保護のため持ち歩いています。
皆さんも新幹線、飛行機、高速道路等で、運転の危険などがない時は耳を保護した方が良いですよ。
大学教授によると、一度低下した聴力はなかなか取り戻しにくいし、内外の有毛細胞は再生不可の消耗品だそうですから。
(とは言いつつ、いつもマメにやっているわけではない。のど元過ぎれば…ってやつですね)

かくして自分の世界に没入した僕は周りを気にせずオレンジのハードカバーを開いたのでした。

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2010年11月24日 (水)

ノルウェイの森

何度この作品を読んだかわからない。
ワタナベがギャツビーを読むほどには執心していないにせよ。
そして、12年前の自分と再会した。

この作品と共に思い出されるのは、大きな失恋。
そして、いくつかのキーワードの共通点が、生々しくあの頃の自分を蘇らせた。
茗荷谷、自殺、京都の森と西への逃避行、一致する数々の固有名詞、そして厭世と自己嫌悪とコンプレックス。

はっきり覚えているのは初めて読んだ時の衝撃と、大きな失恋の時に読んだ抉るような痛みと辛さ。
現実の喪失感と深い傷が、記憶の底からこの世に呼び戻された感じ。

いつか、それこそ一つの長編物語にして綴りたいことの数々。
新しい経験と記憶の片隅に追いやられて、色褪せて風化してしまったと思っていたけれど、そんなことはつゆもなかった。
今ここでそれを語ることはできないけれど。

物語の冒頭で現在のワタナベが語る心情は、当時は多分ほとんど実感できていなかったと思う。
それを現在のニシムラはかなり理解できる。
代わりに、「ワタナベの昔語りを現在進行形で共感していたニシムラ」は姿を消し、「昔語り的に傍観しているニシムラ」になっていた。
これって、結構淋しく悲しいことだと思う。

生々しく目の前に現れた過去の自分は、やはり「過去の自分」でしかなかった。
痛みは過去のものでしかないにせよ、それでもその傷跡はやはり血を吹いていた。

文章は何年経とうとも生気を失っておらず、そして読みやすかった。
細かい描写や情景が心にはっきりと浮かぶ。
以前読んだ時の僕は果たしてこんな風に読めていただろうか?
そういう意味では、僕も少しは成長してこれたのかもしれない。
情景が明確な分、気のせいか少し色が褪せて感じるのだけれど。

昔よりも僕はこの作品に衝撃も覚えず、そして好感度もあがった気がする。

でもそれはむしろ、
少し寂しいことなのだ。

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2010年11月19日 (金)

ノルウェイの森

何回も読んだのに、なぜかおぼろげにしか思い出せない。

忘れよう、と意図的にしているのだろうか?

10年ぶりに読んでみることにした。

記憶の中の自分と、今の自分がきっと向き合う。

楽しみで、

怖くもある。

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