音楽

2018年8月17日 (金)

歌、唄、詩

普段は器楽曲の仕事が多いのです。
ミュージカルもオペラもコーラスももちろんたくさん指揮するのですが・・・
 
今年の夏は合唱の指揮を結構やりました。
やっぱり歌は、いいなぁ。
 
例えば、美しく明るいメロディがある。
メロディだけから判断して、器楽で綺麗に爽やかに、夢見るように演奏する。
 
だが実はこの曲には歌詞がある。
「私はひとりぼっち、愛する彼はこの世を去った。彼との美しい記憶に想いを馳せ、私は今日も歌う・・・」
或いは、
「私のお母さんはやっぱりたった一人だけ...でも、新しいお母さんは私のことを一番に考えて優しくしてくれる。私が新しいお母さんを愛したら、本当のお母さんは天国で悲しい思いをするのかな...だからって、こんな意地悪な私を知ったらすごく悲しむに違いない。ああ、私はもっと心持ちの綺麗な女の子にならなきゃいけない。だからごめんねお母さんたち。私の本当のお母さんは一人きりだけど、新しいお母さんとはきっと一番の親友になってみせるわ。だって二人とも大好きだから」
こんなストーリーがあるのかもしれない。
 
ただの美しいメロディが、深い悲しみと奥行きを持って心に迫ってくる。
歌詞のない音楽にも、そんな想像(妄想?)しながら楽譜を読んだり、創ったりしています。
 
閑話休題 
 
僕はミュージカルや合唱・歌曲を作曲する際、ほとんどの場合歌詞からメロディを創ります。
その方が言葉に呼応した感情をメロディにのせることができるから。
だから恥ずかしながら、自分の曲に涙したりするのです。 
最近書いてないから、書きたいな。
 
去年の今ごろ、歌を2曲書いたのを今思い出しました。
あるきっかけで書いた曲ですが、残念なことにお蔵入りしました。
日の目を見ることもなく、音にされることもなく眠ってしまった音楽たち。
  
いつかきっと。

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2017年5月31日 (水)

Osaka Shion Wind Orchestra正指揮者

私、西村友は、本年4月よりOsaka Shion Wind Orchestra(旧大阪市音楽団)の正指揮者に就任いたしました。
 
以下はShionの紹介ページの記述
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Shionと見る夢

Shionと初共演してから4年の月日が流れました。それから今日まで、幾度となくステージを重ねました。
そのたびに僕は、このオーケストラの持つ底力と奏者の皆さんの高い技術と音楽性に驚き、助けられました。
しかし、まだまだ僕はこのオーケストラの本当のチカラの、その一角を垣間見たに過ぎません。
それは僕とて同じこと。これからさらにお互いの全力を見せ合い、ぶつけ合わなくてはなりません。
吹奏楽と言う音楽が他の音楽に比べて価値が低いように言われた時代はとうの昔に過ぎ去りました。
しかし、まだまだその魅力と可能性を存分に解き放っているとは言い切れません。少しでも、その深淵に迫りたい。僕はこのオーケストラの力を得て、一人一人の奏者の音楽とともに、もっと深いところまで泳ぎ進んでみたいのです。やりたいこと、やってみたいこと。夢も希望も妄想も広がります。このオケの皆さんとなら、聴き慣れた名曲も、最高峰の頂きに挑むような難曲も、きっと聴く人をとらえて離さない名演にたどり着くことが出来る、そう信じて今日も精一杯、全力でタクトを振ります。
どうか、これから生み出されていく名演に、ご期待ください。よろしくお願いいたします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
指揮者はみな、今身をおいている環境で最高のパフォーマンスを出すのが仕事です。
整えること、直すこと、鍛えること、育てること、それらも全部仕事の一側面かもしれません。が、もっとも重要なのは「創ること」
Shionではその部分にもっとも力を注げると思うのです。
 
それはもちろん素晴らしいプレイヤーの皆さんとタッグを組んで初めて成し得ること。
 
指揮者はみな、きっと夢見ます。
いつか自分の理想の音楽を完璧に演奏したい、と。
様々な制約のなか、少しでもそこに近づける様に自分を磨きます。
演奏の成功はプレイヤーのお陰、演奏の不出来は指揮者の責任、だと思うから。
 
5年前、絶望の縁のベッドのなかで、3日間眠れなかった僕は朦朧とした意識のなかで音楽を聴きました。
それは、耳から入るものではなく心から溢れるもの。
それは既存の演奏ではなく、ココロの奥底から湧いて出る、僕の理想の音楽でした。
ああ、僕はまだやれる...
そう感じてから、ドもレも、八分音符も四分音符も、僕のなかでもう一度、特別なものになったのです。
だから、大袈裟に言えば、指揮をするのも作曲をするのも生きることと同義なのです。
食べることも眠ることも遊ぶことも喋ることも滑ることも、まあ全部音楽なのですが...
 
兎に角、
夢を見続けます。

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2016年9月21日 (水)

サックス、デュオリサイタル

今日はオオサカシオンの井澤裕介さんと赤木俊祐さんとのデュオリサイタルが目黒パーシモンにて開催されます。
ピアノはもちろん、ゲストプレイヤーあり、委嘱新曲の初演あり、と盛りだくさんで楽しみ!
僕の曲も2曲やってくれるそうです。
「PopDanceSuite」と「Sax Duoの為の組曲」
「PopDanceSuite」は田村哲君の委嘱で作曲し、初演も彼。
さらに吹奏楽伴奏版も作られ、やはり田村哲君が初演。
先日の青陵ウインドオーケストラの演奏会では、兄の田村真寛君の演奏で再演されました。
この曲の原型になったのは実は「東京中低域」との共演の為に書いた「5本のバリトンサックスと吹奏楽の為のコンポジション」。
幾つか共通のモチーフもあります。
今回井澤君はアルトサックスの為に書かれたこの曲を原型にちなんでバリトンサックスで演奏するそうです。
楽しみ!!!
「Sax Duo」は前出の田村兄弟のデュオリサイタルのために書き下ろした作品。
「1.Player」「2.Prayer」「3.Interplayer」
の3曲からなり、同一のテーマが変容されます。
Prayerでは祈りの言葉がモノローグとして書かれており、東北大震災の翌日に作曲された作品です。
 
こちらも楽しみです!
今からでも間に合います!
ぜひ、聴きに行きましょう!!!
そして…
今晩深夜、
「往く夏を惜しむ深夜のBBQ」
を急遽開催します。
深夜から明日朝までお暇な方、誰でも、突然の参加をお待ちしています。
今のところ二人ですが…
意外なあの人に会えるかも?
 

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2016年8月 4日 (木)

ある英雄の記憶②

毎年、課題曲のアナリーゼ載せてほしい!との声が届きます。
今年は自分の曲もあるワケで、ぜひ書きたいんだけど…
もちろん他の曲も…
時間がないのです…
Pokemon Goも始まったことだし…
 
とりあえず、要望の多かった「ある英雄の記憶」中間部「I」のコード進行です。
Img_0406
よく見ると微妙に間違ってますが…
冒頭NC(コード無し)の部分は本当はG7ですね。
和音の取り方はdim(ディミニッシュコード)ととらえても音楽の意味はつながると思いますし、借用の末の転調ととらえても構わないと思います。
激しい戦いの末に傷つき倒れる少年…
彼の耳に優しい声が響きます。
「…だいじょうぶ。あなたならだいじょうぶ。きっともう一度立ち上がれるわ…」
「その声は、ニーナ(仮名)…?でも、君は、君は…」
「私はずっと一緒にいたのよ。あなたの心の中に、あなたとともに…」
「でも、僕はもうだめなんだ…みんなも僕を必要とはしていない…」
「思い出して、昔の自分を。夢と希望を信じて、一緒に野山を、海辺を走ったあの頃を…」
c mollのV、Gのコードで倒れた少年。
c mollの平行調であるEs durのIIのコードFm7で心配そうに、優しく話しかけるニーナ。
美しい転調を重ねAs durに解決します。
僕が思うに、和音の中の「9の音」と言うのはとってもヒロイックな音。
古今様々な曲、特に英雄の登場する曲では必ずと言ってよいほど「9の音」が活躍します。
試しにファイナルファンタジーのテーマをピアノで弾いてみよう。
ドレミソドレミソドレミソ…そう、このレの音が英雄。
「英雄の記憶」の冒頭、ファンファーレにも表れます。
 
そして4小節目の1stTrp.のFの音。
G♭M7(メジャーセブンス)の7音として登場した「F音」は短い時間にたくさんの和音を旅し、その間常に「F」であり続け、練習番号「A」ではとうとうメロディたちの奏する「F音」、Es dur主和音(E♭9)の「9の音」へと行きつくのです!
このEs dur、すぐに平行調のc mollに移動します。
 
…Es durからc moll…?
そう、中間部ではその逆が起きるのです。
このc moll、かのベートーヴェンも運命と闘った、象徴的な短調。
この調から練習番号「D」ではc mollに戻らずg mollに回り道します。
ベートーヴェンの交響曲第1番の冒頭のように…
そう、それは避けては通れない大切なものへのアプローチなのです。
先日、東京佼成の指揮者、大井さんが「このすぐにc mollに行かないあたりがとっても友さんらしい」と言っていました。
まったくその通り、さすが大井君。
そこまで読みといてくれた人は初めてです(*^_^*)
 
さて、「I」からの中間部でも「9の音」はたくさん出てきます。
でも、ほとんどの「9音」はフラット(下方変異)、と言うか短調のナインス。
やはり少年は傷つき、悩んでいるのです。
ところどころナチュラルになる「9音」に何を見出せるか…
そしてAs durへと行きついたわけですが、Es dur、As durと来たら、次は?
そう、Des dur。
この曲のラストの音を見てみよう。
 
また脱線しちゃいましたが…
As durになったところで場面は一変します。
この作曲家はどうやらメジャーセブンスが大好きなようです。
解決したAsを保留して、Aのメジャーセブンスの「7音」に仕立てています。
ここはきっと少年とニーナの過去の世界、夢の世界…
しかし現実へと少年は戻ります。
「ニーナ、行くな!行かないでくれ!!」
少年は目を覚まします。
知らぬ間に涙はとめどなく流れ、横たわった草葉を濡らします。
傍らに咲くのは可憐で小さなうす紫の花。
「やっぱり僕は、、、ひとりだ、、、」
いいえ、一人ではありません。
つぎつぎに声が聞こえます。
「一人じゃないよ」
「一人にしないよ」
月が、星が花が、草が、風が、ニーナが…
少年の心の叫びむなしく、現実世界c moll(Es dur)に戻りますが、もう一人ではありません。
そして再び少年は旅立つのでした。

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2016年7月29日 (金)

自作を指揮する、と言うこと

僕は作曲もします。
作曲、大好きです。
文章も書きます、演出もします。
歌も歌うし楽器も演奏するし、ちょっぴり踊ったりもします。
それらは全部有機的につながっていて、切り離せるものではないのです。
でも・・・
 
指揮をするとき(楽譜を読むとき)に、作曲者の気持ちを知りたいと、理解したいと、思っています。
何を表現したかったのか、何を描きたかったのか。
そこに自分の感性を乗せます。
そして、時には作曲者の想像を超えた世界(デフォルメの意味ではありません)に足を踏み入れます。
 
作曲する時(楽譜を書くとき)には、演奏者を思い浮かべます。
誰が演奏するのか、どんな演奏を望むのか。
そして、時に演奏者は作曲者の想像を超えて羽ばたきます(もちろん良い意味で)
 
では、作曲者と演奏者が同一人物の場合には…?
 
僕の親友の作曲家は自分で演奏もしますし、指揮も振ります。
彼は言います。
自分は楽器を演奏する時も指揮する時も、自分が作曲家であることからは離れない、と。
 
でも僕は…
 
作曲する時に自分が指揮する姿を想像できません。
そして楽譜を読むときには、作曲者がその音を書いた理由、何を表現したかったのか、何を描きたかったのか、自分の全身全霊を傾けて理解し、分析します。
しかし、そこにイメージされる作曲者は、自分ではないのです…
 
理解してもらえないかもしれませんが、自分で書いた曲、とは全く思えないのです。
まったくの別人、或いは多重宇宙の似て非なる自分が書いた曲、としか思えません。
そして、作曲者「西村友」が作曲時には思いつかなかった秘密、曲の内面にたどり着くことがあるのです。
演奏後に我に帰ったときにその発見に驚くこともしばしば。
臆面もなく言わせてもらえば、作曲家としてこの指揮者の読譜力に驚き、指揮者としてこの作曲家の才能に感心するのです。
世の素晴らしい作曲家に比べれば低いレベルの話なのかもしれませんが…
 
兎に角、自分の曲を演奏する際に、作曲者である自分が全く顔を出さないのですから、他の曲を演奏するのと何ら変わりはありません。
でも、「ある英雄の記憶」をコンクールの場で演奏するのにはとっても抵抗があったのです…
 
プロのオーケストラで指揮をするようになった今でも、コンクールの現場に出て指揮をするのに何の抵抗もありません。
音楽は音楽。
でも、課題曲で自作を演奏するのはいかがなものか、と。
そりゃあ、やりにくいったらありゃしない。
当然、揶揄的に「自作自演」と言われるワケで、コンクールの評価的に不利な面も否めません。
それに、コンクール、と言った限定的な場面では、よりそのオケにあった選曲がなされるべきであり、「ある英雄の記憶」がベストな選択とは限りません。
と言うわけで、僕は今年コンクールで課題曲3番を演奏するのを拒み続けてきたのです。
 
しかし、演奏するのは僕ではなくそれぞれのオケの皆さんで、その皆さんが「やりたい!」と言ってくれるならばそれはとても嬉しいこと。
嫌々、ではなく、演奏するのもとても嬉しいこと。
でも、やっぱり上記の理由から抵抗しました。
やりたくない、と。
 
結論から申しますと、今年僕は「ある英雄の記憶」を演奏します。
しつこいようですが決して嫌々ではありません。
「それでもやりたい!」と言ってくれるのは本当に本当にウレシイことなのです。
多少の不利を承知で演奏することにも納得の上で挑戦します。
 
僕はこの曲が好きです。
演奏できるのは幸せです。
僕の消極的な抵抗を押しのけて、この曲を選んでくれたことにも感謝です。
それに「ある英雄の記憶」は人気のわりに、演奏する団体はあまり多くないようです。
そう思うと、なおさら力も入ります。
指揮者としてやることはただ一つ。
この曲に命を吹き込み、素晴らしい演奏をすることです。
リハーサルを重ねるたびこの曲の新たな秘密や魅力を発見します。
作曲者の予想をはるかに超えて、英雄は羽ばたくのです。
 

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2016年6月21日 (火)

反省と後悔と、中二病の紅い夕陽

朝からたくさん音楽をして、翌日も朝から音楽と一緒で、
本番と言う山を一つ越えた後に320km移動してもう一つ音楽をして…
 
それぞれきちんと全力で、手も抜いたりしないし、気力も体力も漲っていて 
 
でも、いつも通りではない、と言うより、テンションがいつもと違うのか…
 
ステージのm最後の曲が終わると同時に、待たせてあったタクシーに乗り込む。
絶対に間に合わないだろうと思っていた新幹線に奇跡的に間に合う。
予想時間よりも早く到着できたので、リハ時間も多く取れるはず。
 
リハでやるべきこと、実現するべきこと、選ばねばならないこと、
諸々のなすべきことをきちんとこなしてこその指揮者なわけで。
 
でも、気配りが少し足りなかったことに、今年最大級の反省をしているのです…
 
 
今年は、「西村友の作った曲ってなんだかとってもファンタジー。さぞかしご本人は中二病なのでしょう」と日本中で言われています。
そう。
僕はいつまでも夢見る「中二病」
今中二でTrp.を吹いている姪っ子とはアニメやら漫画やら、とっても気が合います。(と信じています)
「いいよな~べつに。中二病で。楽しいし!」
と彼女に言ったら、
「…私はもう中三だけどね…」
と言われてしまいました…
 
音楽は仕事で、そこには責任や義務もあるわけで、すべてが自分のやりたいようにできるわけではもちろんありません。
そのなかでいかに自分のやりたいことをやり、そこに自分の輝きを作ることが出来るのか、と言うことなのです。
まあ、世の人はすべからく、少なからず、同じ想いを持っているのでしょうね。
 
それでも、いや、だからこそ、
僕は死ぬまでこの「中二病(厨二病)」と呼ばれる、夢見がちで青臭い気持ちで生きます。
大人として、先の反省ももちろん踏まえつつ。
 
中学生の頃、高校生の頃、
学校の帰り道、恋する彼女と自転車を押しながら、
他愛もない話をしながら、ずっと想い憧れて、抱きしめたくても手すら握れなかったあの頃の、
彼女の柔らかいくちびるを、小さな胸を、細い肩を、白く伸びた手を、足を、
胸をかきむしるようなもどかしい想いと、
紅い紅い夕陽の中で見た彼女の笑顔を、
 
今日の夕陽を見ながら、
その光に包まれながら、
ぽろぽろ涙をこぼしながら、
切ないすべての想いを、どんなに辛くても、
この想いを忘却と因習の中に埋もれさせずに、
恋をし続けたい、夢見る音楽を創り続けたい、
この心を忘れたくない、この感受性を持ち続けたい、
明日の夕陽を夢見ることのできる人間でいたい、
と、心から思ったのです。
 
いつか、この世を去るその日まで。

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2016年6月 9日 (木)

ブリッツ定期演奏会

まったくもっていつも急なのですが…
 
ブリッツブラスの演奏会、明日に迫りました。
今回はゲスト的に第Ⅰ部のみの出演。
 
1曲目ブリッツの為の序曲は三澤慶さんの力作。
「ブリッツ・フィル・ハーモニック」という言葉の韻をリズムに乗せ、アメリカの作曲家へのオマージュを感じる、さわやかな作品です。
 
2曲目からは今年の吹奏楽コンクールの課題曲が続きます。
まずは、山本雅一さんの『スペインの市場にて』
作曲家の目から見たスペインの市場での印象が描かれています。
そこに僕の妄想も加わって、さてどんな演奏になるでしょう?
 
3曲目は『ある英雄の記憶~「虹の国と氷の国」より』
う~ん、語りたいことは数多あれど…
このブログ内で結構書いているのでそちらをご覧ください(*^_^*)
 
4曲目は『焔』
島田尚美さんは同じ大学の後輩で、指揮は同門。
この曲、第一印象よりもすごく奥が深い!
まったくもって音楽的にやりがいのある曲なのです。
さて、何処まで表現の幅を広げられるか。
 
そして1部最後は高昌帥さんの『マインド・スケープ』
マインドスケープとは「心象風景」
吹奏楽コンクールでもたびたび取り上げられる人気曲です。
高昌帥さんはきちんと自分の書法を持つ、吹奏楽も書いてくれる天才作曲家の一人。
僕が思うに…「音楽表現の多くは、意思と意志の表れ」
チャンスオペレーション(偶然性)の音楽も、即興音楽も、やはりそこに意思はあると思うのです。
意図しない揺らぎやズレなどももちろんあるのですが。
このマインド・スケープでは、音の並びから受ける印象を、奏者(指揮者)が心の風景として演奏するところがキモである、と感じています。
 
アンサンブルは意思なくしては出来ない、しかし一つのメロディーやモチーフから受ける印象は人それぞれ違ってきます。
ソロならばその心象風景の個性は自由です。
しかし、それが人数が増えたとき、どこまで一致するのか?個性は没するのか?或いは一つの方向性に集約されていくのか?
個の心象風景から、少人数の対話、大人数から生まれるグルーブまで、
50人を超えるオーケストラが、個の集団として、しかし一つの生命体としてのマインド・スケープを奏でる様を聴いてください。
 
第Ⅱ部は友人でもある指揮者、松元宏康氏の指揮。
広瀬正憲氏の新作、「天空を駆ける風神雷神」
広瀬氏はコンクールの課題曲で2作品連続で最高位を獲得した特別な人。
その2作品は僕も大注目で、何度も演奏しました。
「サラバンド」はこのブログでもふか~く掘り下げました。
「流沙」も名曲です。
その書法は、非常に精緻な筆致で、ある種幾何学模様のように、しかし自然界に存在する「フィボナッチ数列」のように自然で、説得力にあふれています。
これが、僕にはとても波長が合うのです。
人間的な感覚と表現にあふれた、島田尚美さんの「焔」とは対照的です。
しかし僕はこちらもすごく波長が合うのです!
感情や表情が音に乗って流れていて、時にテンポを越えて同時性も消え、ポリフォニック、或いは多次元の世界に迷い込ませてくれます。
僕の中の二面性かもしれませんが…
これまた大好きです。
 
次は「レイン」
…僕はこの曲を知りません…
でもリハを聴く限りでは綺麗な曲でした。
松元さんは結構聴き映えする演奏に仕上げているようでした。
最後は「宇宙の音楽」
スパークの意欲作です。
場面の描写に長けた作曲家らしい、とてもわかりやすい、誤解を恐れずに言えばアニメのような作品です。
宇宙の誕生からまだ見ぬ未開の未来へと、明快な場面描写に人間の感情も含ませているあたり、人気が高いのも頷けます。
オーケストレーションにある種のムラのようなものを感じるのですが、そこもこの作曲家の魅力です。
そこにどのような意味を持たせ、この曲にさらなる感動を与えることが出来るか、が指揮者の腕の見せ所。
僕も得意曲であるだけに、楽しみです。
 
今回、僕がこの曲を指揮すると思われて、たくさんの問い合わせやチケットの購入をしてくださった方がいらっしゃいます。
チラシが紛らわしかったかもしれません…
困惑やお叱りの言葉も受けました。
本当に申し訳ありませんでした。
チケットを購入された皆さま、僕の振る曲にも、松元くんの「宇宙の音楽」、ご期待ください!
残念ながらキャンセルされた皆さま…、本当にすみません。。。僕の宇宙の音楽もいずれ演奏します!
お楽しみに!
 
ところで、今回の演奏会、スパーク以外の作曲家が全員来場します!!!
こんなことある?
ロビーでは会えると思いますよ!
高昌帥氏や僕の作品も販売しています。
全員のサインももらえるかも!!?? 
 
追伸…
チケットまだ間に合います!
一般3000円、学生1500円でお渡しできます。
数に限りあり!

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2016年5月17日 (火)

ある英雄の記憶①

「去年の秘儀Ⅲのような解説を書いてくれないか…」
と言う話をよく頂きます。
あれはあの曲がとっても素晴らしいので、また一見とても難解なので、自分の為にも深く読み込んだのであって、この「英雄の記憶」にはそれほど難解な部分もなく…
でも要望もあり、せっかくなので少しずつ書いてみようかと思います。
 
ストーリーーやらなにやらは以前にも書いたので割愛…
 
まず、前説的に登場する楽語+etc.について少々解説。
Eroicamente(エローイカメンテ、エロイカメンテ)
イタリア語の「eroica(英雄)」という言葉に「-mente(~のように)」をつけて形容詞のようにしたものです。僕の造語かもしれない…と思ったら案外認知されている言葉だそうです。
ben ten.=ben tenuto(ベン テヌート)
イタリア語の楽語です。benはbeneの語尾省略形です。つまり「しっかり音を保って」とってもよく使われる楽語です。 
 
en dehors(オンデォーr)※カタカナで書くのは難しいですね…。rは喉の奥を鳴らす感じ。アンデオールでもオンドゥオールでもいいかな。
「外に」と言う意味のフランス語です。「その部分を目立たせて」と言う意図でよく使われます。
「(客席に向かって)声を届かせる」と言う意味でオペラではよく登場する言葉ですし、「外側に(足を開く)」と言う意味でバレエでも使われます。というわけで楽語としても登場頻度は高いのです。
 
「こんな言葉初めて聞いた」「なんでわざわざ仏語で書くの?」と言う若い人がいるのは分かるけれど、指導する立場の人でもそんな人がいてびっくり。経験不足ですね。
吹奏楽では、その部分を際立たせたい時に、strident(金切り声のように)、brassy(金属的な強い音で)といった表記も良く見られます。また、forza(フォルツァ=強く)、fz(フォルツァンド=力をかける)、rf,rfz(リンフォルツァンド=強調、補強する)、sf,sfz(スフォルツァンド=強制する、振り絞る)等のイタリア語も、その部分を強調する意味でよく使われます。notevolmente(目立たせて)と言うのも使われる言葉ではありますが、より一般的な言葉としてen dehorsを選びました。
 
「この部分トランペットはもともとメロディなのだから、こんな言葉必要ないのでは?」
と言う人がいてちょっと悲しくなりました。
なぜ作曲家がその言葉を書いたのか、に心を寄せてほしいと思います。
この部分「G」の2小節前、「N」の2小節前、は音の洪水です。人の洪水です。
その雑踏の中で自分の存在を叫んでほしいのです。或いは、混沌の中でもがき叫ぶ様を描いて欲しいのです。
ホルンとトランペットにこの楽語を書いたのはそんな理由です。
 
Allegro con feroce(アレグロ コン フェローチェ)
allegroは「快活に」feroceは「激しく、勇敢に」と言う意味です。
allegroには「陽気に」という意味もありますが、ちょっとここではあてはまりません。どちらかと言うと速度のガイドとしての楽語として使うことの多い言葉です。ここでもそのように使い、feroceを付け加えました。つまり「アレグロのテンポで勇敢に」と言うことです。
feroceは「残忍に、凶暴に」の意味の方が一般的です。しかし、古くは「勇敢」の意味を含んでいたのです。つまり、凶悪に吹き荒れる嵐ではなく、嵐に勇敢に立ち向かう様なのです。
 
stacc.(スタカート、スタッカート)※余談ですが僕はイタリア語をカタカナで表記するならば「スタカート」が良いと思うのです。「alla(~のように)」だったら「アラ」。小さい文字は子音のみ。でも煩雑なので…(^_^)
staccは「分離する」と言う意味です。
「その音を短く切って」でも大体良いのですが、もう少し細かく言うと、「音と音を分離して演奏する」と言う意味です。
ですから、マルカート(減衰を伴う音)でもテヌート(音を保つ)で、音と音の間を断つ、でも良いのです。
ただ単に「音を短くする」とすると困ったことになると思います。
 
「音を短くする、ならば四分音符も短い音符で書けばいいのに」
と言う人がいましたが、まったく真意が読めないのですね…というか多分楽譜を読む経験が少ないのでしょう。
 
文字で表記してある、と言うことはすべての音に・(スタカート記号)が付いているのと同義ですから、音を長目にしたとしても音同士はきちんと独立してほしいです。
 
energico(エネルジーコ)
「力強く」と言う意味です。ただ、精力的に突き進む意味がありますので、自分で運命を切り開いていく、運命に抗う、エネルギーを込めてほしくてこの言葉にしました。
「上の音に向かってcresc.」と言ったエスプレッシーボをかけるのははっきり間違いです。
 
meno f =meno forte(メノ フォルテ)
menoは、よく使われるpoco(少し)の比較級です。
ですから「ちょっとフォルテを少なくして」、つまり「今までより少し弱くして」と言う意味です。「弱い」と言う印象は与えたくないが少し音量を落としたい時などによく使われる楽語です。
 
sonore(ソノーレ)
sonoはもともと「音」の意。「音をよく鳴らす、響かせる」と言う意味でよく使われます。
実は作曲家によって使われ方が結構違います。
「よく歌う」と言う意味に転じて、espressivo(エスプレッシーヴォ=表現に富んで)と混同して使われることがあるのです…

一般的にはespressivoは表現をするためにフレーズの頂点等の抑揚を使います。つまりちょっとしたcresc.やdim.を利用して感情を表現するのです。
しかしsonoreは「一つ一つの音をよく鳴らして」、つまりは「細かいespressivoしないで、一つ一つの音を均等に聴かす(強調して)」ということです。
僕もこちらの意味で使います。
もっと大きな範囲で、俯瞰で見ればそこも含めて大きなespressivoになるわけです…
このことはもう少し説明が必要かもしれませんね…指揮法の範疇かもしれません。
 
sfz=sforzando(スフォルツァンド)
前出の様に、その音を強調したい時によく使われます。
注意したいのは「その音」を強調したいのか「その部分全体」を強調したいのか、と言うところです。様々な作曲家がいろいろな書き方をします。リンフォルツァンドとスフォルツァンドとフォルツァンドを使い分ける作曲家もいます。(フォルツァートとかもありますね)
 
「G」の1小節前のTomをみてみると初めの音符にだけsfzが書いてあります。でもこの音符だけを強調してもあんまり意味がなさそうですよね。だとすると全体にかかっている、と考えた方が自然です。前出のen dehorsと同じような、目立たせる意味だと思われます。もちろんen dehorsとは表現の意味は違います。
 
Malinconia(マリンコニア)
「哀愁を持って」と言う意味です。英語のメランコリックと同じです。最近の作品ではあまり目にしない楽語かもしれません。
 
tenerezza(テネレッツァ)
「やさしさ、慈しみ」と言う意味です。最近のアメリカ作品でよく目にします。
 
piu f =piu forte(ピウ フォルテ)
「強いを強めて」つまり、「今までよりもさらに大きく」
 
Pochiss. piu mosso=Pochissimo piu mosso(ポキシモ ピウ モッソ)
poco(少し)よりも少ないのがpochissimoです。
piuは「もっと多く」、mossoは「動き」
「ほんのちょっと」「もっと多く」「動き」、「ほんのちょっと動きを増やす」、つまりは「ほんのちょっぴり速くする」と言うことです。
 
「見たこともない言葉です。こんな言葉必要ある?」
う~ん、割とよく出る言葉ですよ。あなたが見てきた楽譜にはたまたま出てこなかったんでしょう。勉強不足ですね。この言葉に初めて出会う人にきちんと教えてあげてください。
 
とはいえ…
「pochis.って必要?pocoでいいんじゃないの?」
う~ん…今見ると確かにそうかも…(^_^)
ほんの少しの変化にしてほしくて書いたのですが、pocoでも十分だったかもしれません…
でも、書いた時には自分の中から出てきた言葉なので変更はしません。
 
dolce(ドルチェ)
「甘い、優しい」と言う意味から「柔和に」と言ったニュアンスでよく使われる伊語です。
イタリアでは「お菓子、デザート」と言う意味でも通ります。
 
pochiss.rit.=pochissimo ritaldando(ポキシモ リタルダンド)
「ほんのちょっと遅くしていく」と言う意味です。
補足ですが、この部分「K」の前ではストレットがかかります。
ストレットとは英語で言えばストレス、つまり音量と速度の増加を伴う音楽の運びです。
ですからここのリタルダンドは多めです。
でも「J」がpochis.ならここも同じでないと楽譜上の整合がとれませんので…
 
a tempo(ア テンポ)
「テンポで」、「先ほどのテンポで」と解されることが多いです。
一般的にはTempo I(テンポプリモ)と区別され、速度変化後に元のテンポに戻すときに使われます。「K」の場合には「I」のテンポなのか「J」のテンポなのかわかりにくいので数値を書きました。つまり「I」のテンポと同じです。
 
cresc. poco a poco=crescendo poco a poco(クレシェンド ポーコ ア ポーコ)
少しずつ(だんだんと)音量を上げる
 
poco rall.=poco rallentando(ポコ ラレンタンド)
「ちょっと遅くする」
ritardandoもほとんど同じ意味で使われます。使い分けている作曲家も多くいます。
バルトークの曲のある部分などでは1小節毎に登場したりします。
ではどう違うのか…
「ritardare=遅くなる、ぐずぐずする」「rallentare=遅くする、緩む」と言う元の意味から表現のアイディアを得ることは可能でしょうね。
作曲家の意図を読んで演奏する、と言うのが大前提ですが…
僕のこの曲の場合「D」の前よりも「L」の前の方が感情の描写が強い気がしてrall.にしました。(「緩む」…は違いますね)
 
poco accel.=poco accelerando(ポコ アッチェレランド)
少し速度を暫増する
 
Soar!(ソアール!)
空に舞い上がる!と言う意味です。
しかし…
 
今回この曲を書くに際して、小難しい楽語、こねくり回した回りくどい楽語、マニアックな楽語は使わず、一般的な表記のみで書こうと決めました。
細かい表現は演奏者がしてくれれば良い、と考えたのです。
ここまで(僕が思うに)一般的な言葉ばかりです。
しかし、若い音楽家(中学生や高校生)は初めて目にする方も多くいたようです。
で、ここでの解説を試みたわけですが…
指導する人たちの中からもそんな声が聞こえてきて…
でも、有名な曲を読んでいると普通に出てくる言葉ばかりだからなぁ…
 
で、このSoar!
この言葉だけは一般的な楽語とは言えません。
それに、英語です。
古いフランス語からきた言葉のようですが…
実は僕はこの言葉が好きでよく使います。
僕はよく知らないのですが、吹奏楽(ライニキーやスウェアリンジェンetc...)で時々出てくる言葉だそうで、吹奏楽関係の方の方が馴染みがあるそうです。
でも、僕が思うにはこの言葉だけは楽語でもないし一般的でもないかもしれません。
 
Ancora eroicamente(アンコーラ エロイカメンテ)
「もう一度 英雄の様に」
ancoraには「もう一度」「さらに」という意味があります。
他のコラムでも書きましたが、解釈はいろいろあると思います。
基本的にはテンポの指示は含まれていません。

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2016年5月10日 (火)

ドビュッシーを弾く

揺れる海に潜りながら、
光る水面へ向かってひたすらもがくように…
 
ああ、僕は何処へ向かうのだろう…
何処へ行けるのだろう…
 
ドビュッシーを弾く。
ただひたすら弾く。
 
アラベスク、子供の領分、ベルガマスク組曲、ピアノの為に、夢、前奏曲集、版画、映像、エピグラフ、小組曲、喜びの島…
交響詩「海」やノクターンも弾く。
むさぼるように弾く。
ただ弾く。
好きなように弾く。
何度も何度も…
 
この和音が好きだった。
この音にシビレたあの日の感動を少しずつ思い出してきた。
マラルメもボードレールもヴェルレーヌも。
 
昔よりちょっと上手になったから?
いろんな音がすごく愛おしい。
涙が出る。
ぽろぽろ出る。
 
音楽が大好きだから。
だから大丈夫。
大丈夫だと思う。
 
この感動と情熱と、大好きだという気持ちがしっかりあることを思えたから。
大丈夫だと思う。
 
ああ、恥ずかしい一人の誕生日だ。

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2016年4月28日 (木)

ancora eroicamente

たくさん質問のメール頂きます。
Ancora eroicamente
「もう一度(さらに)英雄的に」
この中にテンポに関する指示はありません。
つまり、テンポは変わらないのです。
 
「でも、冒頭にも同じ記述があり、それと同じと言う意味を含むならば同じテンポでやるべきではないの?」
 
いいえ。
やるべきである、という読み方は曲解です。
「冒頭と同様に(或いはさらに)“英雄的に”演奏する」と解釈するのが正しく、そしてそれが「なんの必要(或いは必然)で書かれたのか」を読み取るべきなのです。
 
苦難を越えて旅をしてきた若き英雄が、最後にどんな言葉を語るのか。
それとも、昔語りの老人の話す冒険譚なのか、年老いた英雄自身の想い出話なのか、それとも客観的に語るストーリーテラーのプロローグとエピローグなのか。
 
この曲を書いた時、「英雄」は現在進行形で物語を奏でていました。
つまり、そのまま駆け抜けるテンポしかありえなかったのです。
しかし、しばらく経って楽譜を眺めるとちょっと違う情景が見えてきました。
 
まったく違う時系列、主観と客観、受動と能動…etc...
ああ、いろんな表現の可能性がある…
そう思って具体的な速度の縛りを外しました。
 
そういうわけで、
「はじめと同じテンポにするべきだ」と言うのははっきり間違い、です。
でも、その表現に必要だ、と思うのならば、堂々とテンポを変えてももちろん構わないのです。
 
音響的理由や、技術の問題だけで遅くするのはおやめください(*^_^*)

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